それにしても前回は「カインとアベル」で今回が、「イサクの献供」とは。政治学としても関連の深いテーマが与えられることには何かしらの意味があるのではないかと勘ぐりつつ、それに対する応えが得られたのはありがたいことでした。
この個所、 キルケゴールがアブラハムの信仰の姿勢を大絶賛したり、カントはなぜ初めの神の言葉を疑うことをしなかったのか、などという哲学の議論もあるようですが、どうも・・・という印象。新共同訳やATDなども活用しましたが、内村による解釈がもっともすっきりとしているような感じがしました「アブラハムの信仰 希伯来書第11章の研究」(大正2年10月10日~12月10日、『聖書之研究』159-161、全集20巻)
いわくこのような試練は「人の信仰を強めんが為め」であり、「信仰の試練である、試惑ではない」と。
またイサクの生還をキリストの復活の「表式(かた)」としての理解、イサクという「我子を我に取り戻したのではない」なぜならば「イサクは神の所属(もの)」だから。よってアブラハムは自分の子を失って「すべて信ずる者の父となった」と内村は述べている。
また今年度は、4月に世話役の西村氏から森有正のアブラハム論をご紹介いただいた。改めて昨日聞いたところによれば、森有正氏と関根正雄先生は高校の同期で、キリスト教に対する風当たりが強い時代にあってともに信仰を深めあう同志であったとか。その後は異なる生涯を送りながらも、同じような信仰境地に至ったことは極めて興味深い。
その森有正氏のICUでの講演集『アブラハムの生涯』を千葉大の図書館で見つけることができ、今回も参照させていただきました。氏曰く、このような「経験」は誰にでも起こるとのこと。
「このユニークな瞬間が、たとえ小さくとも私どもの生涯の経験中に起こってくることがあります。人にも自分にも説明できないようなことが、しかも必然的に、ほとんど運命的に私どもの中に起ってくる。それが、実を申しますと、私どもの経験上の私どもの生涯というものを、本当にユニークな、また私ども一人一人の、ほかの誰のものでもない生涯にしてくれる」
そしてそれでこそ、人間の尊厳や民主主義といったことを考えることができるのだ、と。何か、政治学とのつながりを論じる糸口を与えていただいたような感じがしました。
ちなみに当日は、ベンジャミン・ブリテンによる"Canticles"から、2番目のアブラハムとイサクの対話を扱ったものを聴いてもらいました。
