本年も加藤節代表の下、南原繁研究会ではシンポジウムを開催いたします。皆様お誘い併せの上、お越しくださいますよう、お願い申し上げます。
南原繁研究会ホームページhttp://nanbara.sakura.ne.jp/
第6回 南原繁シンポジウム「南原繁と近代日本の民主主義」
日時:2009年11月3日(水)(文化の日)
13:00~16:40 [開場12:30]
場所:学士会館 210号室 (東京都千代田区神田錦町 3-28)
電話 03-3292-5936参加費:1000円
主催:南原繁研究会(代表 加藤 節 成蹊学園専務理事)
後援:岩波書店、学士会、東京大学出版会、公共哲学ネットワーク
協賛:赤澤記念財団
開催主旨:
南原繁は、戦前、戦中にはドイツと日本とで勃興したナチス世界観と国体論とを批判し、敗戦後は、日本国憲法や教育基本法の制定を柱とする民主化の流れに大きな影響を与えた政治哲学者であった。そうした南原の歩みの基礎にあったのは、理念をもって現実に批判的に立ち向かう精神であり、その批判主義政治学は、丸山真男や福田歓一らに引き継がれて民主主義の定着を目指した戦後日本の政治学の源流を形成することになった。 南原繁生誕120年にあたる本年度のシンポジウムでは、上に述べたような南原の足跡に鑑み、「南原繁と近代日本の民主主義」を共通テーマとすることにした。南原繁と彼をめぐる人々との思想を振り返り、今日の民主主義のあり方を考え直すための指針を探ることがその目的である。第1部では、日本国憲法の審議にも参画した南原繁の戦後改革に対する主張を検討し、第2部のパネル・ディスカッションでは、南原をめぐる5人の人物を選び、民主主義の観点からその思想を洗いなおすことにした。日本の政治が大きな転換期を迎えている今日、今回のシンポジウムが、参加者にとって、過去を知り、未来を展望するための有益な示唆を得る機会となることを期待したい。
プログラム
開会挨拶(13:00)南原繁研究会代表 加藤 節
第1部 講演(13:10~14:10)
「南原繁と日本国憲法」成蹊大学法学部教授 宮村治雄
休 憩
第2部 パネル・ディスカッション(14:30~16:40)
「南原繁をめぐる人々(その4)」
◇ コーディネーター東京大学出版会 竹中英俊
◇ パネリスト
■ 吉野作造 ―民主主義の理念と現実― 千葉大学・公共哲学共働研究所 宮崎文彦
■ 和辻哲郎 ―国民共同体の構造をめぐって― 成蹊大学大学院 川口雄一
■ 田辺 元 ―種の論理― 桜美林大学教育開発センター 橋爪孝夫
■ 賀川豊彦 ―連帯と自治の理想的共同体を目指して― 東京大学大学院 柴田真希都
■ 福田歓一 ―デモクラシーと国民国家― 放送大学非常勤講師 木花章智
※なおシンポジウム終了後、懇親会(17:00~18:30)を予定しております。
(定員100名 会費2,000円 自由参加・当日申し込み)
参加申込
Eメール、FAX、往復はがきに、氏名・住所・電話番号・メールアドレス・所属(団体・会社・
学校等)を明記し(返信葉書には、申し込み者の住所をご記入ください)お申し込みください。
① Eメール こちらのフォームをご利用下さい。
② FAX 南原繁シンポジウム事務局 0422-37-3876
③ 往復はがき180-8633 武蔵野市吉祥寺北町3-3-1 成蹊大学法学部加藤節研究室内 南原繁シンポジウム事務局
※締め切り 定員(350名)になり次第締め切ります。
2009年8月18日火曜日
2009年8月15日土曜日
「公共哲学へ向けて」の再開
すでに前回の更新から半年以上が経ってしまいました。以前使ってブログが今年の2月に不具合を起こし、そのままサービス提供終了へとなってしまい、移転先を探しつつ、自分自身の身の振り方も考えなければならなかったものですから、こうして夏まで来てしまいましたが、こちらで続けさせていただくことにいたしました。今後ともよろしくお願いいたします。
もともと、ブログをやろうしていたというよりは、大学院時代に自分の専門分野をきちんと外部にアピールせよとのことから作ったホームページで、新着情報のページを借りて、備忘録的に日記のようなものを書いていたので、それを継続している程度のものです。それにしても、これまでの投稿を整理していると、結構長く書いてきたものと妙に感慨深いものがありました。
近況ですが、現在千葉大の研究員を継続中。所属は人文社会科学研究科から国際教育センターに移りました。また一方で、京都フォーラム/公共哲学共働研究所の共働研究員も兼務しております。
それにしても長い道のりです。もともとあまり仕事が早い方でもないのに、現実の行政や公共政策と、政治哲学を架橋したいなどという大胆不敵なことをやろうしているわけですから、それはそれは骨の折れるものです。
その他の活動といたしましては、改めてご案内差し上げようと思いますが、11月3日に南原繁研究会のシンポジウムがございます。今回は吉野作造に関しての報告をしなくてはなりません。昨年より、加藤節先生が代表になられ、私自身も若手代表としてこの研究会には深く関わっております。
無教会自由が丘集会では今年度から、旧約聖書を最初から輪読中。例年、秋に聖書講義を担当しておりますが、今年は早めに。「カインとアベル」を担当させていただき、アレントの『革命について』やメルヴィルの『ビリー・バッド』なども参照しつつ、カインの行為により焦点を当てる形での話題提供をさせていただきました。
また、音楽活動でも、再び岡本俊久先生のもとでバッハの『ヨハネ受難曲』を歌いました。またプログラムノートも執筆させていただきましたが、さらに今回は下僕のソロ付き。これほど緊張することもなかったのですが、何とか本番はうまくはまりまして・・・。まあなんとか聴けなくもない、程度でしたが本格的にレッスンを受けたくもなりました。
研究も、聖書研究も、音楽も。どれも中途半端にならないように・・・。
もともと、ブログをやろうしていたというよりは、大学院時代に自分の専門分野をきちんと外部にアピールせよとのことから作ったホームページで、新着情報のページを借りて、備忘録的に日記のようなものを書いていたので、それを継続している程度のものです。それにしても、これまでの投稿を整理していると、結構長く書いてきたものと妙に感慨深いものがありました。
近況ですが、現在千葉大の研究員を継続中。所属は人文社会科学研究科から国際教育センターに移りました。また一方で、京都フォーラム/公共哲学共働研究所の共働研究員も兼務しております。
それにしても長い道のりです。もともとあまり仕事が早い方でもないのに、現実の行政や公共政策と、政治哲学を架橋したいなどという大胆不敵なことをやろうしているわけですから、それはそれは骨の折れるものです。
その他の活動といたしましては、改めてご案内差し上げようと思いますが、11月3日に南原繁研究会のシンポジウムがございます。今回は吉野作造に関しての報告をしなくてはなりません。昨年より、加藤節先生が代表になられ、私自身も若手代表としてこの研究会には深く関わっております。
無教会自由が丘集会では今年度から、旧約聖書を最初から輪読中。例年、秋に聖書講義を担当しておりますが、今年は早めに。「カインとアベル」を担当させていただき、アレントの『革命について』やメルヴィルの『ビリー・バッド』なども参照しつつ、カインの行為により焦点を当てる形での話題提供をさせていただきました。
また、音楽活動でも、再び岡本俊久先生のもとでバッハの『ヨハネ受難曲』を歌いました。またプログラムノートも執筆させていただきましたが、さらに今回は下僕のソロ付き。これほど緊張することもなかったのですが、何とか本番はうまくはまりまして・・・。まあなんとか聴けなくもない、程度でしたが本格的にレッスンを受けたくもなりました。
研究も、聖書研究も、音楽も。どれも中途半端にならないように・・・。
2009/01/03のBlog
新年のご挨拶
少々遅ればせながら、謹んで新年のご挨拶をもうしあげます。本年もどうぞよろしくおねがいいたします。昨年は、前半は松野弘先生を千葉大へお招きして、環境思想の国際シンポジウムを開催。その準備に終われる日々でした。それ以後、まずは「支援行政」に関して、現代行政研究会にて発表(於:早稲田大学)、その後、論文にして千葉大COEの機関誌『公共研究』に投稿しました。このCOEプロジェクトも今年度が最終年度ですので、その最終号に掲載される予定です。一方で先日のブログに書きました、日本平和学会での発表。いよいよ南原に本格的に取り組むこととなりました。実はちょうど南原繁研究会でも若手代表という形で幹事に就任したばかり。まずはこれを今年は論文にしあげなくてはなりません。南原研究は私にとって、一方で無教会とのつながりがあり、こちらの方も徐々に活動が拡大しつつあり、まずは『無教会研究』で書評を書かせていただきました。公共哲学ということでは、立教大学コミュニティ福祉学部で、小林先生と中野さんと共に「公共哲学」の講義を担当。また一方で、市民との対話の場とでも言うべき、「公共哲学を読む会」が発足。稲垣先生、小林先生、山脇先生、そして金先生とご登場いただき、私自身はモデレーターを務めさせていただきました。今年もこの会は継続して、徐々にでも裾野を広げていければ、と思っています。ちなみに、4月からの身分は残念ながら未定でございます。
少々遅ればせながら、謹んで新年のご挨拶をもうしあげます。本年もどうぞよろしくおねがいいたします。昨年は、前半は松野弘先生を千葉大へお招きして、環境思想の国際シンポジウムを開催。その準備に終われる日々でした。それ以後、まずは「支援行政」に関して、現代行政研究会にて発表(於:早稲田大学)、その後、論文にして千葉大COEの機関誌『公共研究』に投稿しました。このCOEプロジェクトも今年度が最終年度ですので、その最終号に掲載される予定です。一方で先日のブログに書きました、日本平和学会での発表。いよいよ南原に本格的に取り組むこととなりました。実はちょうど南原繁研究会でも若手代表という形で幹事に就任したばかり。まずはこれを今年は論文にしあげなくてはなりません。南原研究は私にとって、一方で無教会とのつながりがあり、こちらの方も徐々に活動が拡大しつつあり、まずは『無教会研究』で書評を書かせていただきました。公共哲学ということでは、立教大学コミュニティ福祉学部で、小林先生と中野さんと共に「公共哲学」の講義を担当。また一方で、市民との対話の場とでも言うべき、「公共哲学を読む会」が発足。稲垣先生、小林先生、山脇先生、そして金先生とご登場いただき、私自身はモデレーターを務めさせていただきました。今年もこの会は継続して、徐々にでも裾野を広げていければ、と思っています。ちなみに、4月からの身分は残念ながら未定でございます。
2008/11/27のBlog
日本平和学会分科会での発表
この連休に、名古屋学院大学で行われた日本平和学会の秋季研究集会の分科会にて、)「南原繁の平和論における理想と現実―神の国と地の国の関係」と題する発表を行ってきました。当初、小林先生からおはなしを頂いた際には、南原の平和論を現実の行動面と理論の面の結びつきについてフォローする程度のことを考えていたのですが、『国家と宗教』などを読むうちに、もっと深い結びつきがあるのではと思うようになり、最終的に無教会主義から、彼の現実主義的理想主義ないしは理想主義的現実主義が出てくるのでは、という内容になりました。これまで読んできたバルト神学なども援用しての、政治哲学と神学の知見による内容で、私にとっては「ついに」やってしまったという感じ。いままで研究面でキリスト教に言及することはしてこなかったのですが。コメントをしてくださった中部大学の野崎先生(私と入れ違いで卒業された先輩でした・・・)には、専門が異なるにも関わらず大変適切なコメントをいただき、大変励まされました。またフロアからの質問をしてくださった、立教大学の郭先生からのご質問、コメント大変ありがたいもので、小さな分科会にも関わらず、大変有意義なものにしていただき嬉しく思いました。
この連休に、名古屋学院大学で行われた日本平和学会の秋季研究集会の分科会にて、)「南原繁の平和論における理想と現実―神の国と地の国の関係」と題する発表を行ってきました。当初、小林先生からおはなしを頂いた際には、南原の平和論を現実の行動面と理論の面の結びつきについてフォローする程度のことを考えていたのですが、『国家と宗教』などを読むうちに、もっと深い結びつきがあるのではと思うようになり、最終的に無教会主義から、彼の現実主義的理想主義ないしは理想主義的現実主義が出てくるのでは、という内容になりました。これまで読んできたバルト神学なども援用しての、政治哲学と神学の知見による内容で、私にとっては「ついに」やってしまったという感じ。いままで研究面でキリスト教に言及することはしてこなかったのですが。コメントをしてくださった中部大学の野崎先生(私と入れ違いで卒業された先輩でした・・・)には、専門が異なるにも関わらず大変適切なコメントをいただき、大変励まされました。またフロアからの質問をしてくださった、立教大学の郭先生からのご質問、コメント大変ありがたいもので、小さな分科会にも関わらず、大変有意義なものにしていただき嬉しく思いました。
2008/11/27のBlog
「イロニー」と「ユーモア」
「イロニー」と「ユーモア」は本来、きちんとした議論が必要かと思いますが(キルケゴールとか・・・)、同じような「異化作用」を持っているのではないでしょうか。つまり、既存の何らかの秩序・ルールを壊す、とまではいかなくとも「ずらす」ことで、新たな意味を獲得しようとする、そういった作用を持っているかと思います。そのような異化作用は、イエスのなしたことそのままであるわけです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5.17)イエスの行動はいわゆる「宮清め」の場面など、過激な行動もあり、それまでの社会秩序を破壊するような行動をしているわけですが、それはいわば創造的破壊。そのために、たびたび「たとえ話」というある種の異化作用を使って、本来の意味を取り戻そうとするわけです。ですから、聖書とユーモア、あるいはイロニーは極めて本質的なところをついているのではないかと思っています。
「イロニー」と「ユーモア」は本来、きちんとした議論が必要かと思いますが(キルケゴールとか・・・)、同じような「異化作用」を持っているのではないでしょうか。つまり、既存の何らかの秩序・ルールを壊す、とまではいかなくとも「ずらす」ことで、新たな意味を獲得しようとする、そういった作用を持っているかと思います。そのような異化作用は、イエスのなしたことそのままであるわけです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5.17)イエスの行動はいわゆる「宮清め」の場面など、過激な行動もあり、それまでの社会秩序を破壊するような行動をしているわけですが、それはいわば創造的破壊。そのために、たびたび「たとえ話」というある種の異化作用を使って、本来の意味を取り戻そうとするわけです。ですから、聖書とユーモア、あるいはイロニーは極めて本質的なところをついているのではないかと思っています。
2008/11/11のBlog
聖書講義「地にものを書くイエス」
次々と仕事をこなしていかなくてはいけないなか、なかなか書きたいと思っても書けずにいる日々が続いています。 そのようななかでの今年の聖書講義。実は無教会研修所のサイトに、自由が丘集会の案内が出るようになったようです。こちら。 今年の基調テーマは「聖書とユーモア」。なかなかに難しく、かつ実のところ核心をついたテーマで散々何を取り上げるのか迷ったのですが、私自身が集中的に取り組んでいるヨハネ福音書から、前から気になっていた「地にものを書くイエス」(ヨハネ7章53節~8章11節)を取り上げました。姦淫の女をどう裁くか、というお話。実はこの箇所は本来のヨハネ福音書の記事ではないようですが。 この箇所を取り上げたのは、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」という8章6節のイエスの姿が、何とも気になっていたので。何を書いていたのか、なんでこんな態度をとったのか、どこかユーモラスな印象もあったので、取り上げました。 ところがそんないい加減な?ところから取り組んだ箇所ではあるものの、実はとんでもない箇所であることがすぐにわかりました。なぜなら内村がこの箇所を 「これはどう見ても一幅の画である」と評し、「全福音の縮写」とまで言っているようなところだったのです(内村鑑三聖書注解全集第十巻、「聖善の勝利」163頁)。 この内村の大絶賛振りにいささか戸惑いと恐れをいだきつつ、(『説教者のための聖書講解』(日本基督教団出版局編、1991年)収録の佐々木敏郎氏によるものを参考に話をすすめ、「すぐに消えさる地面」に、イエスは罪状を書きつづけておられたことが、その後の十字架の贖罪を予感させるものとして、主なる神の赦しでまとめました。 一方で、そのような「赦し」は神からの側のものであって、それは私たち人間の側でなすことができるものではないとの問題提起も。一般的にキリスト教徒は寛容で、人を赦すものというイメージがあるかとも思いますが、その実、人間は罪を背負っており、常に神にそむくような存在ですから、この箇所ではイエスをはめようとするユダヤ人やパリサイ人、あるいは姦淫の罪を犯した女であるわけです。 その意味で常に神にそむく罪を犯し、神からの赦しを必要とする、そのような矛盾した側面を持つ存在が人間であるというようなお話も。人間の世界である「地の国」は、天上の「神の国」に連なるものでありながらも、全く別物であるわけです。その意味で、悪や罪の問題を直視すること、キリスト教思想にはそういった面もあることは、いくら強調してもしすぎるものではないのではないかと考えています。 講義はおまけとして?星新一の「悪への挑戦」(『白い服の男』新潮文庫所収)も紹介。裏テキストとして。 今月末は日本平和学会の分科会にて南原の平和論の発表。今回のこの聖書講義も活かしたものにしたいと考えています。
次々と仕事をこなしていかなくてはいけないなか、なかなか書きたいと思っても書けずにいる日々が続いています。 そのようななかでの今年の聖書講義。実は無教会研修所のサイトに、自由が丘集会の案内が出るようになったようです。こちら。 今年の基調テーマは「聖書とユーモア」。なかなかに難しく、かつ実のところ核心をついたテーマで散々何を取り上げるのか迷ったのですが、私自身が集中的に取り組んでいるヨハネ福音書から、前から気になっていた「地にものを書くイエス」(ヨハネ7章53節~8章11節)を取り上げました。姦淫の女をどう裁くか、というお話。実はこの箇所は本来のヨハネ福音書の記事ではないようですが。 この箇所を取り上げたのは、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」という8章6節のイエスの姿が、何とも気になっていたので。何を書いていたのか、なんでこんな態度をとったのか、どこかユーモラスな印象もあったので、取り上げました。 ところがそんないい加減な?ところから取り組んだ箇所ではあるものの、実はとんでもない箇所であることがすぐにわかりました。なぜなら内村がこの箇所を 「これはどう見ても一幅の画である」と評し、「全福音の縮写」とまで言っているようなところだったのです(内村鑑三聖書注解全集第十巻、「聖善の勝利」163頁)。 この内村の大絶賛振りにいささか戸惑いと恐れをいだきつつ、(『説教者のための聖書講解』(日本基督教団出版局編、1991年)収録の佐々木敏郎氏によるものを参考に話をすすめ、「すぐに消えさる地面」に、イエスは罪状を書きつづけておられたことが、その後の十字架の贖罪を予感させるものとして、主なる神の赦しでまとめました。 一方で、そのような「赦し」は神からの側のものであって、それは私たち人間の側でなすことができるものではないとの問題提起も。一般的にキリスト教徒は寛容で、人を赦すものというイメージがあるかとも思いますが、その実、人間は罪を背負っており、常に神にそむくような存在ですから、この箇所ではイエスをはめようとするユダヤ人やパリサイ人、あるいは姦淫の罪を犯した女であるわけです。 その意味で常に神にそむく罪を犯し、神からの赦しを必要とする、そのような矛盾した側面を持つ存在が人間であるというようなお話も。人間の世界である「地の国」は、天上の「神の国」に連なるものでありながらも、全く別物であるわけです。その意味で、悪や罪の問題を直視すること、キリスト教思想にはそういった面もあることは、いくら強調してもしすぎるものではないのではないかと考えています。 講義はおまけとして?星新一の「悪への挑戦」(『白い服の男』新潮文庫所収)も紹介。裏テキストとして。 今月末は日本平和学会の分科会にて南原の平和論の発表。今回のこの聖書講義も活かしたものにしたいと考えています。
2008/04/08のBlog
週刊『ダイヤモンド』特集「学力大不安」
毎年のことながら、年度末は慌しく過ぎ去り、気がつけば新年度。いまだ3月のはじめぐらいの心持でいてしまう。 高崎経済大学での初年時教育をテーマとした共同研究の報告書の校正を提出。新年度の講義は、来週から始まるが、興味深い特集を組んでくれた週刊ダイヤモンド。 4月5日号の特集は「学力大不安」で、「教育崩壊からわが子を守れ!」との副題つき。この副題からも想像できるように、初等~中等教育の話題が中心であるが、学力不安の現状から、政策不全の現実、私立中高と公立校改革、家庭力の高め方、とかなり話題が広範に渡る特大号にふさわしい特集で、興味深いものであった。総花的で、ここをもう少し掘り下げて欲しい、というところが多々あったこともまた確かであるが。 興味深いインタヴューが2つ。ひとつは「ゆとり教育」推進役だった、元文科省大臣官房審議官、寺脇研氏へのインタビュー。もうひとつが、杉並和田中の民間人校長(この3月で退任)藤原和博氏の記事。 昨年度の高経大の報告書を書いている際に、ちょうどこの年の新入生がゆとり教育の1年生ということもあって、当時の文科省の文書などにも眼を通したが、理念は非常に素晴らしいとさえいえるようなもの。寺脇氏のこれからは「自分の頭で考え、付加価値を創造する力」を持った人材が必要であり、そのための教育は詰め込みではないと主張しているが、その点はもっともであろうし、私自身が高崎で実践していることでもある。 また藤原校長による和田中の改革は、最近サピックスとの提携による「夜スペ」が話題となったが、もともとは家庭、学校、地域本部、学習塾がそれぞれの分野において連携をする、体系的な「学び」の仕掛けを作っているという。 特に藤原氏が「元来、学校は地域コミュニティの核になる存在」として、社会における学校の位置づけ、家庭や地域社会との連携などに取り組んでいる点は、私たちのCOEや公共哲学、コミュニタリアニズムとの関係において、大変興味深いものであった。
毎年のことながら、年度末は慌しく過ぎ去り、気がつけば新年度。いまだ3月のはじめぐらいの心持でいてしまう。 高崎経済大学での初年時教育をテーマとした共同研究の報告書の校正を提出。新年度の講義は、来週から始まるが、興味深い特集を組んでくれた週刊ダイヤモンド。 4月5日号の特集は「学力大不安」で、「教育崩壊からわが子を守れ!」との副題つき。この副題からも想像できるように、初等~中等教育の話題が中心であるが、学力不安の現状から、政策不全の現実、私立中高と公立校改革、家庭力の高め方、とかなり話題が広範に渡る特大号にふさわしい特集で、興味深いものであった。総花的で、ここをもう少し掘り下げて欲しい、というところが多々あったこともまた確かであるが。 興味深いインタヴューが2つ。ひとつは「ゆとり教育」推進役だった、元文科省大臣官房審議官、寺脇研氏へのインタビュー。もうひとつが、杉並和田中の民間人校長(この3月で退任)藤原和博氏の記事。 昨年度の高経大の報告書を書いている際に、ちょうどこの年の新入生がゆとり教育の1年生ということもあって、当時の文科省の文書などにも眼を通したが、理念は非常に素晴らしいとさえいえるようなもの。寺脇氏のこれからは「自分の頭で考え、付加価値を創造する力」を持った人材が必要であり、そのための教育は詰め込みではないと主張しているが、その点はもっともであろうし、私自身が高崎で実践していることでもある。 また藤原校長による和田中の改革は、最近サピックスとの提携による「夜スペ」が話題となったが、もともとは家庭、学校、地域本部、学習塾がそれぞれの分野において連携をする、体系的な「学び」の仕掛けを作っているという。 特に藤原氏が「元来、学校は地域コミュニティの核になる存在」として、社会における学校の位置づけ、家庭や地域社会との連携などに取り組んでいる点は、私たちのCOEや公共哲学、コミュニタリアニズムとの関係において、大変興味深いものであった。
2008/02/12のBlog
参加報告「公共空間!『国家・個人・宗教』 をめぐって:稲垣久和氏との対話」
先週開催された下記記事、「公共空間!『国家・個人・宗教』 をめぐって:稲垣久和氏との対話」の参加報告を、公共哲学の風の方へ投稿をしておきました。 第一回ですと、まだ雰囲気などはつかみづらいですし、どういう形で運営をしていけばいいかは迷うところですが、これまでなかなか実現することのなかった市民との対話による公共哲学の継続的な研究会・勉強会としては期待をしたいところで、私自身も積極的に関わって行きたいとは考えています。 宗教教育の必要性に関しては、私自身が中学高校と6年間にわたってカトリックの学校へ行っていたことから、非常に重要であると感じています。ちなみに、カトリックの学校だからといってキリスト教だけを学ぶのではなく、神父が仏教やイスラム教についても講義をするというもので、内容的に偏りのあるものとは感じられませんでした。カントはもちろんのこと、哲学思想史の基礎もやはり神父から学んだというが、私の中学高校の経験でしたし、それ
先週開催された下記記事、「公共空間!『国家・個人・宗教』 をめぐって:稲垣久和氏との対話」の参加報告を、公共哲学の風の方へ投稿をしておきました。 第一回ですと、まだ雰囲気などはつかみづらいですし、どういう形で運営をしていけばいいかは迷うところですが、これまでなかなか実現することのなかった市民との対話による公共哲学の継続的な研究会・勉強会としては期待をしたいところで、私自身も積極的に関わって行きたいとは考えています。 宗教教育の必要性に関しては、私自身が中学高校と6年間にわたってカトリックの学校へ行っていたことから、非常に重要であると感じています。ちなみに、カトリックの学校だからといってキリスト教だけを学ぶのではなく、神父が仏教やイスラム教についても講義をするというもので、内容的に偏りのあるものとは感じられませんでした。カントはもちろんのこと、哲学思想史の基礎もやはり神父から学んだというが、私の中学高校の経験でしたし、それ
2008/01/03のBlog
新年の御挨拶
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 昨年の一番大きな出来事といえば、やはり『コレーク行政学』(藤井浩司・縣公一郎 編、成文堂)の刊行ではなかったかと思われます。補完性の原理に関する論文も仕上げ、現在では研究会としてプロジェクトが発展しています。 遅遅たる歩みではありますが、ひとつひとつ研究成果をあげ、今年は非常勤・兼担ながら「公共哲学」の講義を担当させていただくことになっております。さらなる飛躍を目指して、次へのステップへと踏み出して生きたいと思います。 音楽の面では、現在活動を縮小しておりますが、6月に再びバッハの《ミサ曲ロ短調》を歌う予定がございます。かなりブラッシュアップが必要なようですが、こちらもより深い作品理解を目標にがんばりたいと思っております。
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 昨年の一番大きな出来事といえば、やはり『コレーク行政学』(藤井浩司・縣公一郎 編、成文堂)の刊行ではなかったかと思われます。補完性の原理に関する論文も仕上げ、現在では研究会としてプロジェクトが発展しています。 遅遅たる歩みではありますが、ひとつひとつ研究成果をあげ、今年は非常勤・兼担ながら「公共哲学」の講義を担当させていただくことになっております。さらなる飛躍を目指して、次へのステップへと踏み出して生きたいと思います。 音楽の面では、現在活動を縮小しておりますが、6月に再びバッハの《ミサ曲ロ短調》を歌う予定がございます。かなりブラッシュアップが必要なようですが、こちらもより深い作品理解を目標にがんばりたいと思っております。
2007/11/21のBlog
聖書講義:ヨブ記
年に1回は、今井館での無教会自由が丘集会にて聖書講義を担当させていただいているのですが、今年は旧約聖書の中から新約につながるテーマを取り上げるということになっていたので、色々と迷いつつ、ヨブ記を取り上げることにしました。この経緯は、わかりやすく、きっかけは『公共哲学』シリーズの続編として今年で出版された『物語り論』で、まず第1巻で宮本久雄先生が「特論I 苦難と他者の物語地平――『ヨブ記』の生成・転法的物語論的解釈から」を論じられ、さらに第2巻には竹内裕先生による「発題VII ヨブ記の四つのアイロニー」が論じられていたことでした。確かにヨブ記は文学作品としても高い評価を与えられるものとされており、このような議論において取り上げられるのは当然といえば、当然ですが。とはいえ、特に第2巻は私自身がレポートを担当、さらに手許には浅野順一氏の岩波新書もあれば、関根正雄先生訳による岩波文庫もすでにあり。もうこれはヨブ記を取り上げるしかないのであろう、との判断から取り上げた次第で。迷わずに済んで楽といえば楽なのか・・・。とはいえ、ヨブ記全体を議論するわけには行かないので、今回は宮本先生の論文を読んだときに気になって確認してみた、第40章15節以下を関根先生の解釈に従いつつ、「神の故に神を信ずる」ということ、と題しての講義にしました。結論をいってしまえば、重要なのは、人間の側からではなく《神の側から》、すなわち《神の自由なる意志のはたらき》の結果としての救済であるということです。特に以下のような関根先生の解説に依拠してのことです。ヨブは神を求めながら自己を求め、自己中心という抜け出ることのできない絶望的状況に陥没する以外になかった。このようなヨブに対し、神が問いつめられるものとしてではなく、ヨブに問う者として出てこられたことこそヨブの百八十度の方向転換を可能にした神の恩恵であった。神の自由なる恵みは神の側から人の方向に向いて下さったということにつきる。(中略)神はヨブに問いつめられるようなあわれな不自由な神ではなく――従ってヨブの作った偶像ではなく――正にその逆に世界を創造した神、従ってヨブの創造者であり、ヨブに答えを要求する神なのである。(「ヨブ記註解」『関根正雄著作集9』322~3頁、強調は引用者)
年に1回は、今井館での無教会自由が丘集会にて聖書講義を担当させていただいているのですが、今年は旧約聖書の中から新約につながるテーマを取り上げるということになっていたので、色々と迷いつつ、ヨブ記を取り上げることにしました。この経緯は、わかりやすく、きっかけは『公共哲学』シリーズの続編として今年で出版された『物語り論』で、まず第1巻で宮本久雄先生が「特論I 苦難と他者の物語地平――『ヨブ記』の生成・転法的物語論的解釈から」を論じられ、さらに第2巻には竹内裕先生による「発題VII ヨブ記の四つのアイロニー」が論じられていたことでした。確かにヨブ記は文学作品としても高い評価を与えられるものとされており、このような議論において取り上げられるのは当然といえば、当然ですが。とはいえ、特に第2巻は私自身がレポートを担当、さらに手許には浅野順一氏の岩波新書もあれば、関根正雄先生訳による岩波文庫もすでにあり。もうこれはヨブ記を取り上げるしかないのであろう、との判断から取り上げた次第で。迷わずに済んで楽といえば楽なのか・・・。とはいえ、ヨブ記全体を議論するわけには行かないので、今回は宮本先生の論文を読んだときに気になって確認してみた、第40章15節以下を関根先生の解釈に従いつつ、「神の故に神を信ずる」ということ、と題しての講義にしました。結論をいってしまえば、重要なのは、人間の側からではなく《神の側から》、すなわち《神の自由なる意志のはたらき》の結果としての救済であるということです。特に以下のような関根先生の解説に依拠してのことです。ヨブは神を求めながら自己を求め、自己中心という抜け出ることのできない絶望的状況に陥没する以外になかった。このようなヨブに対し、神が問いつめられるものとしてではなく、ヨブに問う者として出てこられたことこそヨブの百八十度の方向転換を可能にした神の恩恵であった。神の自由なる恵みは神の側から人の方向に向いて下さったということにつきる。(中略)神はヨブに問いつめられるようなあわれな不自由な神ではなく――従ってヨブの作った偶像ではなく――正にその逆に世界を創造した神、従ってヨブの創造者であり、ヨブに答えを要求する神なのである。(「ヨブ記註解」『関根正雄著作集9』322~3頁、強調は引用者)
2007/10/29のBlog
『コレーク行政学』ようやく刊行です
すっかり更新を怠ってしまっておりますが、ようやく!公共哲学の章の執筆をさせていただいた『コレーク行政学』が刊行となりました。目次と共に以下に御紹介させていただきます。価格も教科書ですのでお安くなっております。どうぞよろしくお願いいたします。
藤井浩司・縣公一郎 編『コレーク行政学』成文堂
ISBN:4792332303
本体価格: 2,500円
http://www.seibundoh.co.jp/book_s/book.cgi?Isbn=ISBN4-7923-3230-3
「あとがき」より
このように、本書では、行政の現実を、その全体像や他のアクターとの関係、そして運営理念から説き起こした後、外在的要因との関係を捉え、中央と地方での改革の現実とその契機としての政策評価を議論し、最後に行政のあり方を考えている。こうした構成で行政学を標榜することは、恐らくこれまで余り行なわれてこなかっただろう。 その成果に対する評価は、読者諸氏に是非お願いしたい。ただ、その前に一点だけ申し述べさせて頂くなら、行政を社会全体のコンテクストで捉えることが、本書を貫く一つのモティーフである、と言うことである。これは、行政を決して独立した一つの組織としてのみ捉えるのではなく、環境と常に連関して動態する主体と考え、それを行政を巡る諸相から解き明かそうと試みている、ということである。
すっかり更新を怠ってしまっておりますが、ようやく!公共哲学の章の執筆をさせていただいた『コレーク行政学』が刊行となりました。目次と共に以下に御紹介させていただきます。価格も教科書ですのでお安くなっております。どうぞよろしくお願いいたします。
藤井浩司・縣公一郎 編『コレーク行政学』成文堂
ISBN:4792332303
本体価格: 2,500円
http://www.seibundoh.co.jp/book_s/book.cgi?Isbn=ISBN4-7923-3230-3
「あとがき」より
このように、本書では、行政の現実を、その全体像や他のアクターとの関係、そして運営理念から説き起こした後、外在的要因との関係を捉え、中央と地方での改革の現実とその契機としての政策評価を議論し、最後に行政のあり方を考えている。こうした構成で行政学を標榜することは、恐らくこれまで余り行なわれてこなかっただろう。 その成果に対する評価は、読者諸氏に是非お願いしたい。ただ、その前に一点だけ申し述べさせて頂くなら、行政を社会全体のコンテクストで捉えることが、本書を貫く一つのモティーフである、と言うことである。これは、行政を決して独立した一つの組織としてのみ捉えるのではなく、環境と常に連関して動態する主体と考え、それを行政を巡る諸相から解き明かそうと試みている、ということである。
2007/09/11のBlog
補完性原理論文の公開
COEの季刊誌『公共研究』に掲載された補完性原理に関する論文、ならびに研究会報告がwebで読めるようになりました。ともにPDFファイルになります。ご関心おありの方々にお読みいただければありがたく思います。
特集:「場所の感覚」と補完性原理への寄稿論文公共哲学としての「補完性原理」
公共政策セクション対話研究会(福祉環境交流センター連続セミナー第41回)報告
補完性原理を軸とした行政とNPOのパートナーシップ
これまで『公共研究』に掲載された論文もPDFでお読みいただけます。
「行政国家」から考える公共性論 (第2巻第1号、2005年)
「公益」概念を求めて : 戦後アメリカ政治学の展開に見る現実主義と理想主義 (第3巻第1号、2006年)
COEの季刊誌『公共研究』に掲載された補完性原理に関する論文、ならびに研究会報告がwebで読めるようになりました。ともにPDFファイルになります。ご関心おありの方々にお読みいただければありがたく思います。
特集:「場所の感覚」と補完性原理への寄稿論文公共哲学としての「補完性原理」
公共政策セクション対話研究会(福祉環境交流センター連続セミナー第41回)報告
補完性原理を軸とした行政とNPOのパートナーシップ
これまで『公共研究』に掲載された論文もPDFでお読みいただけます。
「行政国家」から考える公共性論 (第2巻第1号、2005年)
「公益」概念を求めて : 戦後アメリカ政治学の展開に見る現実主義と理想主義 (第3巻第1号、2006年)
2007/08/15のBlog
8月15日――その日に
今日、8月15日は終戦記念日であると同時に、政治学者丸山眞男の命日でもある。今更ながら今日の東京新聞の社説で赤木智弘氏の「『丸山真男』をひっぱたきたい」(『論座』2007年1月号掲載)を知る。幸い、赤木氏のサイトで、本論は読むことができる。 勿論当初は、なんらかの丸山論を期待して読み、それが所詮は「一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光」という、私憤に過ぎないもので、どうしてこの程度のものが掲載されるのかという点に大きな疑義を抱いた。 しかしながら、同誌4月号に佐高信、奥原紀晴、若松孝二、福島みずほ、森達也、鎌田慧、斎藤貴男という面々が応答し、さらに同誌6月に掲載された、赤木氏からの反論「けっきょく、『自己責任』ですか」を読み、赤木氏の問題提起の重要性を認識するようになった。 結局赤木氏の問題提起として重視されるべきは、現在の「格差社会」の議論から抜け落ちてしまっている「安定労働層と貧困労働層間の経済格差」という問題。その問題に対して左派は感受性が欠如しており、そのことが貧困労働層をして「不安定なまま活動を強制されるよりも、むしろ右派の論理で、人間の評価軸を『経済』から、日本人や性別などの固有性を重視する『道徳』に移し、社会的基盤を安定させるほうが手っ取り早い」とい考えに至らせてしまう(「けっきょく、『自己責任』ですか」より)。そのような形でしか、「人間(として)の尊厳」をもちえなくなってしまっている。 赤木氏と私自身は同年齢ではないようだが、明らかに同世代。あと2歳でも私が年上であれば、感覚は異なっていたかもしれない。私自身は就職活動を殆どしなかったものの、周囲の様子から明らかに変化を感じ取っていた者としては、赤木氏の論考には共感を覚える部分が多い。もちろんそのような感覚的なもののみならず、彼自身が自らに課した宿題(「必要悪」としての戦争、「流動性を必須のものとして人類全体で支えていくような社会づくり」)は、公共哲学を考える人間としても真剣に取り組まなければならない課題であろうと、深く感じ入った次第である。
今日、8月15日は終戦記念日であると同時に、政治学者丸山眞男の命日でもある。今更ながら今日の東京新聞の社説で赤木智弘氏の「『丸山真男』をひっぱたきたい」(『論座』2007年1月号掲載)を知る。幸い、赤木氏のサイトで、本論は読むことができる。 勿論当初は、なんらかの丸山論を期待して読み、それが所詮は「一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光」という、私憤に過ぎないもので、どうしてこの程度のものが掲載されるのかという点に大きな疑義を抱いた。 しかしながら、同誌4月号に佐高信、奥原紀晴、若松孝二、福島みずほ、森達也、鎌田慧、斎藤貴男という面々が応答し、さらに同誌6月に掲載された、赤木氏からの反論「けっきょく、『自己責任』ですか」を読み、赤木氏の問題提起の重要性を認識するようになった。 結局赤木氏の問題提起として重視されるべきは、現在の「格差社会」の議論から抜け落ちてしまっている「安定労働層と貧困労働層間の経済格差」という問題。その問題に対して左派は感受性が欠如しており、そのことが貧困労働層をして「不安定なまま活動を強制されるよりも、むしろ右派の論理で、人間の評価軸を『経済』から、日本人や性別などの固有性を重視する『道徳』に移し、社会的基盤を安定させるほうが手っ取り早い」とい考えに至らせてしまう(「けっきょく、『自己責任』ですか」より)。そのような形でしか、「人間(として)の尊厳」をもちえなくなってしまっている。 赤木氏と私自身は同年齢ではないようだが、明らかに同世代。あと2歳でも私が年上であれば、感覚は異なっていたかもしれない。私自身は就職活動を殆どしなかったものの、周囲の様子から明らかに変化を感じ取っていた者としては、赤木氏の論考には共感を覚える部分が多い。もちろんそのような感覚的なもののみならず、彼自身が自らに課した宿題(「必要悪」としての戦争、「流動性を必須のものとして人類全体で支えていくような社会づくり」)は、公共哲学を考える人間としても真剣に取り組まなければならない課題であろうと、深く感じ入った次第である。
2007/08/14のBlog
参院選与党惨敗と景気への影響・・・政治と市場の自律性?
参院選結果「景気にマイナス」42社…読売100社調査
記事に拠れば、「参院選終了直後に全国の主要100社を対象に行った緊急アンケート」で与党惨敗という選挙結果が景気に及ぼす影響を聞いたところ、「どちらかというとマイナス」が最多の42社で、「影響ない」の40社をわずかに上回った、とのこと。 「プラスの影響を予測した企業はゼロ」で「安倍内閣の経済運営が行き詰まることへの懸念が広がっている」との解説記事があった。 日経新聞でもたびたびこのような「懸念」が散見されるが、正直このような情報にどの程度の意味があるのだろうか。所詮経済界にとっては、政治(の混乱)はお荷物でしかない。まして既得権益の大きいアクターほど、現状維持の政権を支持するのは当りませすぎる真実であろう。 与党惨敗の結果が景気に悪影響ということならば、むしろ惨敗に導いた現政権の責任を追及すべきであろう。 真に市場が自律的で、公共圏を形成しているのであれば、政治の混乱など意に留めることなく機能していればいいだけのこと。市場原理主義者がそう主張してもいいはずだが、寡聞にしてそういう意見は耳にしていない。
参院選結果「景気にマイナス」42社…読売100社調査
記事に拠れば、「参院選終了直後に全国の主要100社を対象に行った緊急アンケート」で与党惨敗という選挙結果が景気に及ぼす影響を聞いたところ、「どちらかというとマイナス」が最多の42社で、「影響ない」の40社をわずかに上回った、とのこと。 「プラスの影響を予測した企業はゼロ」で「安倍内閣の経済運営が行き詰まることへの懸念が広がっている」との解説記事があった。 日経新聞でもたびたびこのような「懸念」が散見されるが、正直このような情報にどの程度の意味があるのだろうか。所詮経済界にとっては、政治(の混乱)はお荷物でしかない。まして既得権益の大きいアクターほど、現状維持の政権を支持するのは当りませすぎる真実であろう。 与党惨敗の結果が景気に悪影響ということならば、むしろ惨敗に導いた現政権の責任を追及すべきであろう。 真に市場が自律的で、公共圏を形成しているのであれば、政治の混乱など意に留めることなく機能していればいいだけのこと。市場原理主義者がそう主張してもいいはずだが、寡聞にしてそういう意見は耳にしていない。
2007/07/30のBlog
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公共哲学演習
自分が学部時代はすでに7月の中頃から夏季休暇に入っていたような気がするが、私の非常勤先は、7月いっぱい講義があり、いま学生は試験真っ最中。私の授業は27日が最後で、この日にレポートを提出してもらった。これから採点にとりかからねば。 今年度は若干、1年生が少ないものの、約60名分、それぞれに違うテーマを選定してのレポートを読み採点することは決して容易な作業ではなく。しかしながら、特に正規分布での相対評価を意識せずとも、20名程度のクラスだと、優5名、良10名、可5名という結果になるもので。 一方で最後の授業ではアンケートも実施し、この授業の目的は単なる文章技術の習得を目指すものではないが、どういったところにあると理解しているかと問うてみたところ、さすがに2年生は客観的、論理的、批判的、多元的な「ものの考え方」であることを理解してくれている。 一方、千葉大でもフォーマルにではないが、1年生対象の基礎ゼミ「公共性を中心に」を分担担当。4回で、山脇直司氏の公共哲学とは何か (ちくま新書)を扱う少々無理のあるプログラムであったが、担当の学生は、よくポイントを押えたレジュメを作ってきてくれた。 すすめ方としては、当然、その内容すべてを扱うことはできないので、私から若干の補足(特に政治学・行政学として知っておいて欲しいところなど)をしたうえで、報告者ならびにコメンテーターから論点を出してもらって、みんなで議論をするというスタイルを採用。1年生であることもあり、学問的な議論というよりは、教育基本法や市場主義の問題、福祉や年金から環境や貧困の問題まで、テーマを設定していろいろな意見を出してもらうという形を採って、公共哲学というものが、実践的な哲学、現実の問題に関わろうとする思想であるという点を知ってもらうことに重点を置いた。 一方で公共哲学の「哲学」とは、といったことも問うてみた。それなりに20名集まった意識の高い学生たちはそれぞれのイメージを話してくれたので、興味深いものであった。私自身は、「哲学」というものは先の批判的思考と近いイメージを持っており、公共哲学は、公共(性)に対する再考を促すもの(よくよく考え直してみる)という意義を強調したいと考えている。
公共哲学演習
自分が学部時代はすでに7月の中頃から夏季休暇に入っていたような気がするが、私の非常勤先は、7月いっぱい講義があり、いま学生は試験真っ最中。私の授業は27日が最後で、この日にレポートを提出してもらった。これから採点にとりかからねば。 今年度は若干、1年生が少ないものの、約60名分、それぞれに違うテーマを選定してのレポートを読み採点することは決して容易な作業ではなく。しかしながら、特に正規分布での相対評価を意識せずとも、20名程度のクラスだと、優5名、良10名、可5名という結果になるもので。 一方で最後の授業ではアンケートも実施し、この授業の目的は単なる文章技術の習得を目指すものではないが、どういったところにあると理解しているかと問うてみたところ、さすがに2年生は客観的、論理的、批判的、多元的な「ものの考え方」であることを理解してくれている。 一方、千葉大でもフォーマルにではないが、1年生対象の基礎ゼミ「公共性を中心に」を分担担当。4回で、山脇直司氏の公共哲学とは何か (ちくま新書)を扱う少々無理のあるプログラムであったが、担当の学生は、よくポイントを押えたレジュメを作ってきてくれた。 すすめ方としては、当然、その内容すべてを扱うことはできないので、私から若干の補足(特に政治学・行政学として知っておいて欲しいところなど)をしたうえで、報告者ならびにコメンテーターから論点を出してもらって、みんなで議論をするというスタイルを採用。1年生であることもあり、学問的な議論というよりは、教育基本法や市場主義の問題、福祉や年金から環境や貧困の問題まで、テーマを設定していろいろな意見を出してもらうという形を採って、公共哲学というものが、実践的な哲学、現実の問題に関わろうとする思想であるという点を知ってもらうことに重点を置いた。 一方で公共哲学の「哲学」とは、といったことも問うてみた。それなりに20名集まった意識の高い学生たちはそれぞれのイメージを話してくれたので、興味深いものであった。私自身は、「哲学」というものは先の批判的思考と近いイメージを持っており、公共哲学は、公共(性)に対する再考を促すもの(よくよく考え直してみる)という意義を強調したいと考えている。
2007/07/30のBlog
熟議民主主義に向けて
これほどまでに事前の予測が当った国政選挙も珍しかったのではないだろうか、と思うほどの今回の参議院議員選挙。やはり改めて読み直してみると、読売新聞の終盤情勢調査やゲンダイ・ネットの個別の選挙区、話題候補の当落予想の分析(infoseekより)など、改めて読み直してみると大変興味深い。判官びいきを狙って危機感をあおっている危険もあるとの見方もあったが。 一方で今回の選挙は、選挙への関心の高さ、投票を呼びかける動きが注目された点であった。投票を呼びかけるCMはもちろんのこと、様々な試みで投票の呼びかけが行なわれ、総務省の特設サイトなども国政選挙で本格的なものは初めてという。 さらに毎日新聞のサイトでは「毎日ボートマッチ(えらぼーと)」が、東大社会科学研究所の上神貴佳研究支援推進員らの研究チームが運営する「投票ぴったん2007」が、それぞれ開設され、自分の志向性と政党の政策との合性を計算してくれるものが登場した。 このようなものは、かつて話題になった「World's Smallest Political Quiz」(日本語訳などもある模様)などもあるが、投票の参考にはどの程度なるものかはやや疑問が残るものの(結局どの政党にもあまり合わない結果だったりする)、投票に当っての考える手立てが増えるということは、熟議投票への第一歩として評価されるべきものであろう。 あとはいかにして熟議投票が熟議民主主義へと発展するか、であろうか。選挙のときだけということにならなければというのは、ありふれた懸念かもしれないが。
これほどまでに事前の予測が当った国政選挙も珍しかったのではないだろうか、と思うほどの今回の参議院議員選挙。やはり改めて読み直してみると、読売新聞の終盤情勢調査やゲンダイ・ネットの個別の選挙区、話題候補の当落予想の分析(infoseekより)など、改めて読み直してみると大変興味深い。判官びいきを狙って危機感をあおっている危険もあるとの見方もあったが。 一方で今回の選挙は、選挙への関心の高さ、投票を呼びかける動きが注目された点であった。投票を呼びかけるCMはもちろんのこと、様々な試みで投票の呼びかけが行なわれ、総務省の特設サイトなども国政選挙で本格的なものは初めてという。 さらに毎日新聞のサイトでは「毎日ボートマッチ(えらぼーと)」が、東大社会科学研究所の上神貴佳研究支援推進員らの研究チームが運営する「投票ぴったん2007」が、それぞれ開設され、自分の志向性と政党の政策との合性を計算してくれるものが登場した。 このようなものは、かつて話題になった「World's Smallest Political Quiz」(日本語訳などもある模様)などもあるが、投票の参考にはどの程度なるものかはやや疑問が残るものの(結局どの政党にもあまり合わない結果だったりする)、投票に当っての考える手立てが増えるということは、熟議投票への第一歩として評価されるべきものであろう。 あとはいかにして熟議投票が熟議民主主義へと発展するか、であろうか。選挙のときだけということにならなければというのは、ありふれた懸念かもしれないが。
2007/06/13のBlog
南原繁研究会編『宗教は不必要か』刊行
昨年11月に開催された第3回南原繁シンポジウムの記録を中心とした書籍宗教は不必要かが刊行されました。 私も当日、坂田祐を担当させていただき、公共哲学のことも含めて発表をいたしましたが、今回は南原の個と共同体についても大幅に加筆をしたものを仕上げました。 内容目次は以下のようになっております。アマゾンから御購入が可能ですので、よろしくお願いいたします。
「まえがき」(鴨下重彦)Ⅰ
第三回南原 繁シンポジウム
南原 繁の信仰と思想に学ぶ
「シンポジウムの開催にあたって」(山口周三)
講演「南原繁のキリスト教信仰と学問思想」(近藤勝彦)
パネル・ディスカッション「南原 繁をめぐる人々(一)」
「はじめに 南原繁『信仰の力』」(高木博義)
「内村 鑑三 ―南原繁の内村観」(豊川慎)
「坂田 祐 ―信仰共同体白雨会における交流」(宮﨑文彦)
「三谷 隆正 ―信仰と学問」(村松晋)
「青山 士 ―土木とキリスト教信仰」(白井芳樹)
「矢内原忠雄 ―戦後相継いだ無教会総長」(鴨下重彦)
「おわりに 無教会主義者南原繁とこの世の活動」(高木博義)
「閉会の辞にかえて ―楕円形の法則」(樋野興夫)
懇親会スピーチ
「教育委員から一言 ―乾杯の音頭を兼ねて」(鳥居勇夫)
「三冊の本 ―南原先生の思い出」(河上民雄)
「小僧と神様 ―南原先生の思い出」(安倍道典)
「父の思い出 ―宗教観について」(南原晃)
「演説『他者』の思い出」(江端公典)
Ⅱ 追想 福田歓一先生
「信仰と文化(札幌独立教会創立百十周年記念講演)」(福田歓一)
「福田歓一先生の遺されたもの」(加藤節)
「福田歓一先生と南原繁研究会」(高木博義)
「『一つのエピソード』とその周辺」(鴨下重彦)
Ⅲ 南原 繁をめぐって
「新渡戸稲造と南原繁」(鴨下重彦)
「小杉高校訪問記」(竹中英俊)
「坂田記念館を訪ねて」(山口周三)
「南原繁先生のこと」(藤原てい)
「あとがき」(石川信克)
昨年11月に開催された第3回南原繁シンポジウムの記録を中心とした書籍宗教は不必要かが刊行されました。 私も当日、坂田祐を担当させていただき、公共哲学のことも含めて発表をいたしましたが、今回は南原の個と共同体についても大幅に加筆をしたものを仕上げました。 内容目次は以下のようになっております。アマゾンから御購入が可能ですので、よろしくお願いいたします。
「まえがき」(鴨下重彦)Ⅰ
第三回南原 繁シンポジウム
南原 繁の信仰と思想に学ぶ
「シンポジウムの開催にあたって」(山口周三)
講演「南原繁のキリスト教信仰と学問思想」(近藤勝彦)
パネル・ディスカッション「南原 繁をめぐる人々(一)」
「はじめに 南原繁『信仰の力』」(高木博義)
「内村 鑑三 ―南原繁の内村観」(豊川慎)
「坂田 祐 ―信仰共同体白雨会における交流」(宮﨑文彦)
「三谷 隆正 ―信仰と学問」(村松晋)
「青山 士 ―土木とキリスト教信仰」(白井芳樹)
「矢内原忠雄 ―戦後相継いだ無教会総長」(鴨下重彦)
「おわりに 無教会主義者南原繁とこの世の活動」(高木博義)
「閉会の辞にかえて ―楕円形の法則」(樋野興夫)
懇親会スピーチ
「教育委員から一言 ―乾杯の音頭を兼ねて」(鳥居勇夫)
「三冊の本 ―南原先生の思い出」(河上民雄)
「小僧と神様 ―南原先生の思い出」(安倍道典)
「父の思い出 ―宗教観について」(南原晃)
「演説『他者』の思い出」(江端公典)
Ⅱ 追想 福田歓一先生
「信仰と文化(札幌独立教会創立百十周年記念講演)」(福田歓一)
「福田歓一先生の遺されたもの」(加藤節)
「福田歓一先生と南原繁研究会」(高木博義)
「『一つのエピソード』とその周辺」(鴨下重彦)
Ⅲ 南原 繁をめぐって
「新渡戸稲造と南原繁」(鴨下重彦)
「小杉高校訪問記」(竹中英俊)
「坂田記念館を訪ねて」(山口周三)
「南原繁先生のこと」(藤原てい)
「あとがき」(石川信克)
2007/05/22のBlog
千葉大のアール・ヌーヴォー
年度末の慌しさで気付かなかったことのですが、実はたびたび開催されている、千葉大図書館所蔵のアール・ヌーヴォー関係の資料展示が・・・。動物文様集の公開がついにされていたとは。以下、情報です。http://www.ll.chiba-u.ac.jp/~kikaku/exhibit/2006/siryotenji3.html
平成18年度第3回附属図書館本館資料展示 動物をデザインする ーアール・ヌーヴォーの動物文様集'L'animal dans la decoration'からー展示期間:2月27日~5月末 場 所:附属図書館本館1階展示コーナー イタリア語でアール・ヌーヴォーのことを'stile floreale' <花のスタイル>とも呼ぶように、アール・ヌーヴォーの特徴として植物的な曲線が挙げられます。 しかし、アール・ヌーヴォーの時代には、動物をモチーフにしたデザインにも優れた面白いものがあります。今回展示している図案集には、鳥や昆虫まで色々な動物が使われています。 本館では、今回展示した資料以外にもアール・ヌーヴォーに関する図書や動物の図鑑類を多数所蔵しています。 ぜひ興味のあることについて調べたり、読んでみてください。 展示資料 『L'animal dans la decoration』 par M.P. Verneuil ; introduction de M.E. Grasset
年度末の慌しさで気付かなかったことのですが、実はたびたび開催されている、千葉大図書館所蔵のアール・ヌーヴォー関係の資料展示が・・・。動物文様集の公開がついにされていたとは。以下、情報です。http://www.ll.chiba-u.ac.jp/~kikaku/exhibit/2006/siryotenji3.html
平成18年度第3回附属図書館本館資料展示 動物をデザインする ーアール・ヌーヴォーの動物文様集'L'animal dans la decoration'からー展示期間:2月27日~5月末 場 所:附属図書館本館1階展示コーナー イタリア語でアール・ヌーヴォーのことを'stile floreale' <花のスタイル>とも呼ぶように、アール・ヌーヴォーの特徴として植物的な曲線が挙げられます。 しかし、アール・ヌーヴォーの時代には、動物をモチーフにしたデザインにも優れた面白いものがあります。今回展示している図案集には、鳥や昆虫まで色々な動物が使われています。 本館では、今回展示した資料以外にもアール・ヌーヴォーに関する図書や動物の図鑑類を多数所蔵しています。 ぜひ興味のあることについて調べたり、読んでみてください。 展示資料 『L'animal dans la decoration』 par M.P. Verneuil ; introduction de M.E. Grasset
2007/04/26のBlog
国民投票法案成立は記念のためか
参議院憲法調査特別委が国民投票法案について、5月7日に地方公聴会を開催することから、憲法記念日成立はお流れとなったようだが、「5月18日の参議院60周年記念祝賀会までに成立させる」などという発言が、自民党幹部からなされたというような話も。 もともと自主憲法制定は与党自民党の党是であるし、私自身は自主憲法制定のための国民的な議論を行うことは、重要であると考えている。改憲が第九条の平和主義の破棄につながるという反対論には一概に賛成できない。 ただ残念ながら国民投票法案成立が、憲法記念日や議院60周年記念祝賀会などと絡めて話をされてしまうと、結局中身よりはとにかく記念にやっておきたいのね、という印象を抱いてしまう点が残念である。十分な世論の支持が得られないことを見越し、参院選への影響を考えて、早期成立を図ろうとしているのではとみなされてしまっても、これでは致し方ないのではないだろうか。 ご参考までに。「改憲と国民投票法案に反対する大学人アピール」~不公正な改憲促進手続法案に抗議する~http://pubphilo.hp.infoseek.co.jp/Constitution-Appeal.htm
参議院憲法調査特別委が国民投票法案について、5月7日に地方公聴会を開催することから、憲法記念日成立はお流れとなったようだが、「5月18日の参議院60周年記念祝賀会までに成立させる」などという発言が、自民党幹部からなされたというような話も。 もともと自主憲法制定は与党自民党の党是であるし、私自身は自主憲法制定のための国民的な議論を行うことは、重要であると考えている。改憲が第九条の平和主義の破棄につながるという反対論には一概に賛成できない。 ただ残念ながら国民投票法案成立が、憲法記念日や議院60周年記念祝賀会などと絡めて話をされてしまうと、結局中身よりはとにかく記念にやっておきたいのね、という印象を抱いてしまう点が残念である。十分な世論の支持が得られないことを見越し、参院選への影響を考えて、早期成立を図ろうとしているのではとみなされてしまっても、これでは致し方ないのではないだろうか。 ご参考までに。「改憲と国民投票法案に反対する大学人アピール」~不公正な改憲促進手続法案に抗議する~http://pubphilo.hp.infoseek.co.jp/Constitution-Appeal.htm
2007/03/01のBlog
滋賀の新幹線新駅建設問題
書き留めておきたいことは沢山ありつつも、なかなか更新できずに、ついに3月にまでなってしまいました。年明けから原稿の締め切りが次々とあり、また例のごとくレポートの採点に苦慮したことなどもありまして。 ところで嘉田滋賀県知事には、昨年のシンポジウムにお越しいただいたから、ということでひいきにしているわけではありませんが、「滋賀の新幹線新駅、控訴審が1審の起債差し止め支持」(読売新聞サイトより)は大変興味深い記事。嘉田知事が「凍結」を掲げ、建設が一時ストップしている東海道新幹線新駅建設問題に関して、大阪高裁が新駅建設に関連する市債の起債差し止めを支持する判決を出したという。 実際に新駅が必要かどうか、無駄な公共事業をなくすべきかどうかは一概に断定することができるわけではない。 しかし、少なくとも、とにかく債券発行して資金を集めて事業を推進しましょう、という安易な行政に歯止めをかける方向性が生まれていることは、大いに歓迎すべきことであろう。
書き留めておきたいことは沢山ありつつも、なかなか更新できずに、ついに3月にまでなってしまいました。年明けから原稿の締め切りが次々とあり、また例のごとくレポートの採点に苦慮したことなどもありまして。 ところで嘉田滋賀県知事には、昨年のシンポジウムにお越しいただいたから、ということでひいきにしているわけではありませんが、「滋賀の新幹線新駅、控訴審が1審の起債差し止め支持」(読売新聞サイトより)は大変興味深い記事。嘉田知事が「凍結」を掲げ、建設が一時ストップしている東海道新幹線新駅建設問題に関して、大阪高裁が新駅建設に関連する市債の起債差し止めを支持する判決を出したという。 実際に新駅が必要かどうか、無駄な公共事業をなくすべきかどうかは一概に断定することができるわけではない。 しかし、少なくとも、とにかく債券発行して資金を集めて事業を推進しましょう、という安易な行政に歯止めをかける方向性が生まれていることは、大いに歓迎すべきことであろう。
2007/01/04のBlog
新年の御挨拶
新年、あけましておめでとうございます。 昨年は、ようやくジョン・グレイ著『自由主義の二つの顔』の翻訳も出版することができ、成果がかたちとして現れてくるようになりました。 この春には、共著で行政学のテキストが出版されます。私の担当は最終章「公共哲学」。公共哲学一般に関する書籍は、東大出版会のシリーズはもちろんのこと、山脇先生の『公共哲学とは何か』をはじめとして出版されていますが、個別学問分野との関係で論じられたものは、恐らく初めてではないかと思われます。 今後もこのような公共哲学の知見を生かした政治哲学、行政学の展開を目指し、精進したく思っております。本年もなにとぞよろしくお願いいたします。
新年、あけましておめでとうございます。 昨年は、ようやくジョン・グレイ著『自由主義の二つの顔』の翻訳も出版することができ、成果がかたちとして現れてくるようになりました。 この春には、共著で行政学のテキストが出版されます。私の担当は最終章「公共哲学」。公共哲学一般に関する書籍は、東大出版会のシリーズはもちろんのこと、山脇先生の『公共哲学とは何か』をはじめとして出版されていますが、個別学問分野との関係で論じられたものは、恐らく初めてではないかと思われます。 今後もこのような公共哲学の知見を生かした政治哲学、行政学の展開を目指し、精進したく思っております。本年もなにとぞよろしくお願いいたします。
2006/11/22のBlog
「自由主義の二つの顔」朝日書評掲載
9月末に公刊されたジョン・グレイ『自由主義の二つの顔』は、どの程度の売れ行きかどうか聞いていませんが、先日の日曜日の朝日新聞の書評欄で大きく取り上げられました。全文はこちらでお読みになることができます。 また、図書新聞でも取り上げられ、こちらは中金聡氏による本格的なものです。「『暫定協定』は力のまさる側に有利な条件で結ばれる公算大である」といった批判は、井上達夫氏のものと共通するものがあるが、果たしてそうといえるかどうかはやや疑問。徹底した「哲学から政治への遁走」をしているグレイには、確かに課題は山積みであるが、むしろそういった事態を積極的に認めようとするのがグレイではないかと。確かにそれは自らの役割の放棄であり、責任逃れに見えなくもないが、むしろそう見えるのは、哲学による(一義的な)問題解決がありうるという前提に立っているからだよ、とグレイはほくそ笑んでいるのではないか、というのが私の見方です。積極的に「政治」の意義を認めている点を、もっと買ってもよいのではないでしょうか。
9月末に公刊されたジョン・グレイ『自由主義の二つの顔』は、どの程度の売れ行きかどうか聞いていませんが、先日の日曜日の朝日新聞の書評欄で大きく取り上げられました。全文はこちらでお読みになることができます。 また、図書新聞でも取り上げられ、こちらは中金聡氏による本格的なものです。「『暫定協定』は力のまさる側に有利な条件で結ばれる公算大である」といった批判は、井上達夫氏のものと共通するものがあるが、果たしてそうといえるかどうかはやや疑問。徹底した「哲学から政治への遁走」をしているグレイには、確かに課題は山積みであるが、むしろそういった事態を積極的に認めようとするのがグレイではないかと。確かにそれは自らの役割の放棄であり、責任逃れに見えなくもないが、むしろそう見えるのは、哲学による(一義的な)問題解決がありうるという前提に立っているからだよ、とグレイはほくそ笑んでいるのではないか、というのが私の見方です。積極的に「政治」の意義を認めている点を、もっと買ってもよいのではないでしょうか。
2006/11/22のBlog
南原シンポ成功裏に終了
先週末に学士会館にて開かれた第3回の南原繁シンポジウムは、数多くの来場者にも恵まれて、盛会と相成りました。特に教育基本法改正問題との絡みでは盛り上がったわけですが・・・。残念ながら今国会での成立が濃厚となってきた模様です。 私自身の発表は、南原繁と内村門下で「白雨会」を形成した、坂田祐に関するもの。坂田祐は関東学院の設立に寄与し、校訓「人になれ 奉仕せよ」を遺している。 坂田の生涯は、貧困の中での苦しい鉱山での労働、軍人としての活躍、それと対比しての信仰への道、30歳にして勉学の道へ再び戻るなど、関東学院を設立するまでを追うだけでも、大変興味深いものがある。 しかしながら、坂田が内村から受け継いだ思想、これにも焦点があてられるべきで、特に今回は南原との共通項をさぐるべく、「個人と共同体」のあり方を論じてみた次第です。おかげで公共哲学の「活私(個・己)開公」との関係も論じることができ、好評でした。 なおこのシンポジウムの報告等は、これまで同様、to be出版より来春刊行されます。
先週末に学士会館にて開かれた第3回の南原繁シンポジウムは、数多くの来場者にも恵まれて、盛会と相成りました。特に教育基本法改正問題との絡みでは盛り上がったわけですが・・・。残念ながら今国会での成立が濃厚となってきた模様です。 私自身の発表は、南原繁と内村門下で「白雨会」を形成した、坂田祐に関するもの。坂田祐は関東学院の設立に寄与し、校訓「人になれ 奉仕せよ」を遺している。 坂田の生涯は、貧困の中での苦しい鉱山での労働、軍人としての活躍、それと対比しての信仰への道、30歳にして勉学の道へ再び戻るなど、関東学院を設立するまでを追うだけでも、大変興味深いものがある。 しかしながら、坂田が内村から受け継いだ思想、これにも焦点があてられるべきで、特に今回は南原との共通項をさぐるべく、「個人と共同体」のあり方を論じてみた次第です。おかげで公共哲学の「活私(個・己)開公」との関係も論じることができ、好評でした。 なおこのシンポジウムの報告等は、これまで同様、to be出版より来春刊行されます。
2006/11/14のBlog
教育基本法改正問題と南原繁
昨日に引き続き教育基本法改正問題ですが。「8月15日と南原繁を語る会」において、最も真摯に南原の思想を語ってくださった高橋哲哉氏は、その後さらに南原に肩入れをしているようで、先日、名古屋で開催された「教育基本法特別委員会」の公聴会でも、一貫して南原をとりあげ、改正の必要がないことを訴えています。 その公聴会における内容が、保坂展人衆議院議員のブログで読むことができるようです。ぜひどうぞ→こちら。 愛国心という問題に限っていえば、正直、この改正によって愛国心が本当に養われるのであれば、むしろ私自身は積極的に賛成をしたいほど。しかしながら、高橋の最後の部分の言及にもあるように、南原は「現行の教育基本法の理念によってこそ、真理と正義、自由と平和を希求する『真の愛国心』が呼び起こされる、と考えていました」。 国家の介入過剰を懸念するよりも、このような形でしか教育の問題の解決することができないのか、という点のほうが私にとっては問題に感じられる。
昨日に引き続き教育基本法改正問題ですが。「8月15日と南原繁を語る会」において、最も真摯に南原の思想を語ってくださった高橋哲哉氏は、その後さらに南原に肩入れをしているようで、先日、名古屋で開催された「教育基本法特別委員会」の公聴会でも、一貫して南原をとりあげ、改正の必要がないことを訴えています。 その公聴会における内容が、保坂展人衆議院議員のブログで読むことができるようです。ぜひどうぞ→こちら。 愛国心という問題に限っていえば、正直、この改正によって愛国心が本当に養われるのであれば、むしろ私自身は積極的に賛成をしたいほど。しかしながら、高橋の最後の部分の言及にもあるように、南原は「現行の教育基本法の理念によってこそ、真理と正義、自由と平和を希求する『真の愛国心』が呼び起こされる、と考えていました」。 国家の介入過剰を懸念するよりも、このような形でしか教育の問題の解決することができないのか、という点のほうが私にとっては問題に感じられる。
2006/11/13のBlog
第3回南原シンポ、今週末開催です
10月は8日にTMVの公演でバッハの《ロ短調ミサ》、翌9日はパイオニア合唱団の公演でヴェルディの《レクイエム》。プロだったら確実に避けるであろう、極めて無謀なスケジュールは何とかこなすことができました。共に初めて取り組む大曲。よくぞまあやったものと、自分に感心をするというよりは呆れるといった方が正しいようです。 両日とも、御来場いただいた方には厚く御礼申し上げます。幸い、両公演とも成功裏に終えることができました。私自身としては、ロ短調はいずれまた取り組みたいところです。ヴェルディはとりあえず一回歌えればいいかな、という感じ。 さて、公演が終わり、いくつかの仕事に追われておりましたが、南原繁研究会でのシンポジウム、今回は3回目を迎えることとなりましたが、ぜひ若手のパネリストをということで、関東学院の設立者であられる坂田祐氏と白雨会を通しての南原の思想的背景を話すこととなりました。ご案内はこちらに、PDFファイルにて御用意いたしております。ぜひ、ひとりでも多くの方の御来場を心よりお待ちいたしております。 当日は、教育基本法改正問題などにも話題が及ぶのではないかと思われます。私自身は、以前にキリスト新聞で書かせていただいたように、昨今の教育をめぐる問題の解決の寄与には全くならないばかりか、問題を隠蔽しかねないという立場です。果たして今回の改正が、憲法改正への議論へと繋がるかどうかはまた別の議論として、教育基本法の改正がどれほど意味のないことか、それよりもより現場の状況を改善しうる具体的が方策が必要であること、また教育の現場は「学校」のみに限定されるものではないこと、それを認識することからはじめざるをえないのではないかと考えています。
10月は8日にTMVの公演でバッハの《ロ短調ミサ》、翌9日はパイオニア合唱団の公演でヴェルディの《レクイエム》。プロだったら確実に避けるであろう、極めて無謀なスケジュールは何とかこなすことができました。共に初めて取り組む大曲。よくぞまあやったものと、自分に感心をするというよりは呆れるといった方が正しいようです。 両日とも、御来場いただいた方には厚く御礼申し上げます。幸い、両公演とも成功裏に終えることができました。私自身としては、ロ短調はいずれまた取り組みたいところです。ヴェルディはとりあえず一回歌えればいいかな、という感じ。 さて、公演が終わり、いくつかの仕事に追われておりましたが、南原繁研究会でのシンポジウム、今回は3回目を迎えることとなりましたが、ぜひ若手のパネリストをということで、関東学院の設立者であられる坂田祐氏と白雨会を通しての南原の思想的背景を話すこととなりました。ご案内はこちらに、PDFファイルにて御用意いたしております。ぜひ、ひとりでも多くの方の御来場を心よりお待ちいたしております。 当日は、教育基本法改正問題などにも話題が及ぶのではないかと思われます。私自身は、以前にキリスト新聞で書かせていただいたように、昨今の教育をめぐる問題の解決の寄与には全くならないばかりか、問題を隠蔽しかねないという立場です。果たして今回の改正が、憲法改正への議論へと繋がるかどうかはまた別の議論として、教育基本法の改正がどれほど意味のないことか、それよりもより現場の状況を改善しうる具体的が方策が必要であること、また教育の現場は「学校」のみに限定されるものではないこと、それを認識することからはじめざるをえないのではないかと考えています。
2006/09/15のBlog
グレイ『自由主義の二つの顔』完成いたしました
ようやく足掛け?年かけたジョン・グレイの翻訳が刊行されました。もう書店にも並んでいるようです。ちなみに帯にある「最新の政治哲学論集大成」は、思わず「政治哲学論集」と読んでしまうのが問題かと。 今回は最終的に小林正弥先生との解説も担当。内容理解に関しては、いずれ現倫研ででも発表させていただいて、御批判を仰ぎたいと思います。 実は本書よりも先に翻訳したものもあるものの、これが最初に活字になりました。まだ実感はなく。 定価は本体2,800円と、研究書にしてはお手があるな値段かと思います。ぜひお買い求め下さい。翻訳の誤り等、御批判もお待ちいたしております。 Amazonはこちらで。
ようやく足掛け?年かけたジョン・グレイの翻訳が刊行されました。もう書店にも並んでいるようです。ちなみに帯にある「最新の政治哲学論集大成」は、思わず「政治哲学論集」と読んでしまうのが問題かと。 今回は最終的に小林正弥先生との解説も担当。内容理解に関しては、いずれ現倫研ででも発表させていただいて、御批判を仰ぎたいと思います。 実は本書よりも先に翻訳したものもあるものの、これが最初に活字になりました。まだ実感はなく。 定価は本体2,800円と、研究書にしてはお手があるな値段かと思います。ぜひお買い求め下さい。翻訳の誤り等、御批判もお待ちいたしております。 Amazonはこちらで。
2006/09/15のBlog
丸山眞男後の政治学
日記をつけるべくBlogをやっているわけではないので、どうしても書き残しておきたいことがあっても、その時間が十分にとることができないと、更新が滞ってしまいます。このところ懸案だったことは、高崎の担当者会議+合宿。さらに来春刊行予定の行政学テキストの執筆のための研究会。なかなか落ち着いて論文に取り組むということができていないのは何とも。 というようなこともあり、ようやく手にした苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』(岩波新書)を読む。本書に対する評価は賛否両論の部分もあるが、現在入手できるかぎりにおいて幅広い、多くの資料を用いて、同時代的「等身大の」丸山眞男を描こうとする姿勢はやはり他書にはない試みとして、高く評価されるべきであろう。 もちろん、新書であるが故の限界もところどころに感じるが、少なくとも筆者の目指した「丸山眞男という稀有な知性がのこした言葉の群れのなかへわいって、そのなかをさまよう途上で見つけた、珠玉や棒きれや落とし穴を、できるかぎり克明に記し、それぞれと出あった驚きを、読んでくれる方々とともにすること」(「あとがき」より)は、十分果たされているものと思われる。丸山入門書として最適というよりは、すでに丸山の思想を知る人へのさらなる丸山理解に向けてのガイドとしての価値の方が高いように思われる。丸山が生きた時代の雰囲気、空気、そしてそれらに対する丸山の思考と苦悩を共にすることができることは、ありがたい。少なくとも丸山の思想を知る上での入門書ではないだろう。 丸山眞男が亡くなってから今年で10年になるという。その前々年である1994年、私が早稲田に入学した年には藤原保信が亡くなっている。二人の政治学における知の巨人の死は、やはり一つの時代が終ったことの象徴だったであろうし、当時学部生だった私にとっては「その後」を模索していかなければならない、というような気概があったように思える。 とはいえ、とくに丸山の場合には当時、相当に話題になっていたことから、なぜそれほどまでにというほど徹底的に避けていた。早稲田の政経も、どちらかといえば実証系が精力的には強く(いまではますますという印象)、大学院進学も、政治学者になろうという意識などなく、東工大へ。そこでたまたま「日本人の日本人論」をテーマに、福澤の『文明論之概略』を細川周平(現:国際日本文化研究センター教授)と読む中で、自分の読みが、かなり丸山のそれに近いことを指摘されたことをよく覚えている。ようやく博士課程へ進学して、小林正弥氏との出会いもあってから、ようやく正面から丸山の著作に目を通すようになった。そうしてなぜ今まで目を通さなかったのかと後悔するほど、その内容に深く感銘を受けるとともに、自分のやりたい研究がここにあり、それからあえて目をそらし、避けてきたことを自覚した。丸山にはそういった、一種の愛憎があり、今回、苅部氏の著作を読むことで、「等身大の」丸山眞男の思考と人生の軌跡をたどることができたことは、喜びであると同時に、様々に考えさせられるものであった。 数少ない駒場での政治学の講義を聴いた師匠は、丸山に関してひとつだけ、意外と小さい人だなあと感じたことが印象として残っていると述べておられた。それだけ、彼の発言は大物としてのそれであり、丸山の本来持っている以上の影響力を持っていたことの証左ではないかとも思われた。
日記をつけるべくBlogをやっているわけではないので、どうしても書き残しておきたいことがあっても、その時間が十分にとることができないと、更新が滞ってしまいます。このところ懸案だったことは、高崎の担当者会議+合宿。さらに来春刊行予定の行政学テキストの執筆のための研究会。なかなか落ち着いて論文に取り組むということができていないのは何とも。 というようなこともあり、ようやく手にした苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』(岩波新書)を読む。本書に対する評価は賛否両論の部分もあるが、現在入手できるかぎりにおいて幅広い、多くの資料を用いて、同時代的「等身大の」丸山眞男を描こうとする姿勢はやはり他書にはない試みとして、高く評価されるべきであろう。 もちろん、新書であるが故の限界もところどころに感じるが、少なくとも筆者の目指した「丸山眞男という稀有な知性がのこした言葉の群れのなかへわいって、そのなかをさまよう途上で見つけた、珠玉や棒きれや落とし穴を、できるかぎり克明に記し、それぞれと出あった驚きを、読んでくれる方々とともにすること」(「あとがき」より)は、十分果たされているものと思われる。丸山入門書として最適というよりは、すでに丸山の思想を知る人へのさらなる丸山理解に向けてのガイドとしての価値の方が高いように思われる。丸山が生きた時代の雰囲気、空気、そしてそれらに対する丸山の思考と苦悩を共にすることができることは、ありがたい。少なくとも丸山の思想を知る上での入門書ではないだろう。 丸山眞男が亡くなってから今年で10年になるという。その前々年である1994年、私が早稲田に入学した年には藤原保信が亡くなっている。二人の政治学における知の巨人の死は、やはり一つの時代が終ったことの象徴だったであろうし、当時学部生だった私にとっては「その後」を模索していかなければならない、というような気概があったように思える。 とはいえ、とくに丸山の場合には当時、相当に話題になっていたことから、なぜそれほどまでにというほど徹底的に避けていた。早稲田の政経も、どちらかといえば実証系が精力的には強く(いまではますますという印象)、大学院進学も、政治学者になろうという意識などなく、東工大へ。そこでたまたま「日本人の日本人論」をテーマに、福澤の『文明論之概略』を細川周平(現:国際日本文化研究センター教授)と読む中で、自分の読みが、かなり丸山のそれに近いことを指摘されたことをよく覚えている。ようやく博士課程へ進学して、小林正弥氏との出会いもあってから、ようやく正面から丸山の著作に目を通すようになった。そうしてなぜ今まで目を通さなかったのかと後悔するほど、その内容に深く感銘を受けるとともに、自分のやりたい研究がここにあり、それからあえて目をそらし、避けてきたことを自覚した。丸山にはそういった、一種の愛憎があり、今回、苅部氏の著作を読むことで、「等身大の」丸山眞男の思考と人生の軌跡をたどることができたことは、喜びであると同時に、様々に考えさせられるものであった。 数少ない駒場での政治学の講義を聴いた師匠は、丸山に関してひとつだけ、意外と小さい人だなあと感じたことが印象として残っていると述べておられた。それだけ、彼の発言は大物としてのそれであり、丸山の本来持っている以上の影響力を持っていたことの証左ではないかとも思われた。
2006/08/22のBlog
引き続き「8月15日と南原繁を語る会」
先日の「8月15日と南原繁を語る会」に関しては、昨日読売新聞に、今朝日経新聞にそれぞれシンポジウムの内容を伝える記事が掲載されていました。オンラインで読めるものとしては、西日本新聞の以下のもの。http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20060816/20060816_015.shtml また立花氏の連載で南原に触れられているものが以下にも。http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060725_815/ お蔭様で南原に注目が集まることは大変にありがたいことで、11月に予定されている南原研究会のシンポジウムへも早速申し込みが来ているとか。 シンポジウムに関しましては、こちらのパンフレット(PDFファイルです)をご参照下さい。11月18日(土)学士会館にて13:00~16:30で開催。テーマは「南原繁の信仰と思想に学ぶ」で、私は坂田祐を取り上げ「信仰共同体白雨会における交流」をテーマに登壇します。
先日の「8月15日と南原繁を語る会」に関しては、昨日読売新聞に、今朝日経新聞にそれぞれシンポジウムの内容を伝える記事が掲載されていました。オンラインで読めるものとしては、西日本新聞の以下のもの。http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20060816/20060816_015.shtml また立花氏の連載で南原に触れられているものが以下にも。http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/060725_815/ お蔭様で南原に注目が集まることは大変にありがたいことで、11月に予定されている南原研究会のシンポジウムへも早速申し込みが来ているとか。 シンポジウムに関しましては、こちらのパンフレット(PDFファイルです)をご参照下さい。11月18日(土)学士会館にて13:00~16:30で開催。テーマは「南原繁の信仰と思想に学ぶ」で、私は坂田祐を取り上げ「信仰共同体白雨会における交流」をテーマに登壇します。
2006/08/16のBlog
「8月15日と南原繁を語る会」無事に終了
「8月15日と南原繁を語る会」は、事務方の準備に様々な混乱はあったものの、会場時間を16時前に前倒ししたこともあり、1,000人近い来場者の受付を3箇所で担当するという少々無理がある状況も乗り越えることができ、無事に終了いたしました。 結局来場者数がどの程度になったかはわかりませんが、キャンセル待ちの50名以上の方にご入場していただくことができたことは混乱をさけることができ、何よりでした。 ところで内容の方に関して言えば、もっとも今回のシンポジウムの内容に相応しい、誠実な発表をされたのは、高橋哲哉氏による「南原繁と靖国問題」だったように思われた。高橋氏は南原が靖国問題には殆ど全くといってよいほど言及していない中(恐らくこれはあたっているものと思われる)「戦歿学徒を弔う」などを引用して、南原の思想から靖国問題を考えるという課題に取り組まれておられたからだ。高橋氏の引用でやはり強調され、私自身も印象深く思った一節は同公演の最後にあたる以下の部分だった。「・・・今日追悼記念の式を挙げるに当り、諸君の霊は必ずや帰り来たってここに在るであろう。その英霊を囲んで、学園にふさわしく何の宗教的儀式も持たぬ純一無雑な慰霊祭において、不肖ながら自ら祭主ともなって執り行ったわれらの衷情を諸君はきっと酌んでくれるであろう。」
また初めて間近に見る大江健三郎氏の、師渡辺一夫氏を介しての南原との出会いのエピソードなども興味深いものだった。
「8月15日と南原繁を語る会」は、事務方の準備に様々な混乱はあったものの、会場時間を16時前に前倒ししたこともあり、1,000人近い来場者の受付を3箇所で担当するという少々無理がある状況も乗り越えることができ、無事に終了いたしました。 結局来場者数がどの程度になったかはわかりませんが、キャンセル待ちの50名以上の方にご入場していただくことができたことは混乱をさけることができ、何よりでした。 ところで内容の方に関して言えば、もっとも今回のシンポジウムの内容に相応しい、誠実な発表をされたのは、高橋哲哉氏による「南原繁と靖国問題」だったように思われた。高橋氏は南原が靖国問題には殆ど全くといってよいほど言及していない中(恐らくこれはあたっているものと思われる)「戦歿学徒を弔う」などを引用して、南原の思想から靖国問題を考えるという課題に取り組まれておられたからだ。高橋氏の引用でやはり強調され、私自身も印象深く思った一節は同公演の最後にあたる以下の部分だった。「・・・今日追悼記念の式を挙げるに当り、諸君の霊は必ずや帰り来たってここに在るであろう。その英霊を囲んで、学園にふさわしく何の宗教的儀式も持たぬ純一無雑な慰霊祭において、不肖ながら自ら祭主ともなって執り行ったわれらの衷情を諸君はきっと酌んでくれるであろう。」
また初めて間近に見る大江健三郎氏の、師渡辺一夫氏を介しての南原との出会いのエピソードなども興味深いものだった。
2006/08/10のBlog
8月15日と南原繁を語る会
そうそうたるメンバーを講演者を迎えて、立花隆氏が中心となって開催される「8月15日と南原繁を語る会」は、会場を安田講堂に変更することが出来、大幅に収容人数を増やすことが出来たものの、すでに定員の倍近くの2,000名ほどから申込が来ている模様。 現在、参加確認をしているので、それによってキャンセル待ちの方々へ席が回るかもしれません。 私自身は、南原研究会のメンバーとして実行委員会側で当日参加をします。 立花氏の 文章なども読むことが出来ますので、以下のサイトをご覧下さい。http://www.nanbara.net/top.php
そうそうたるメンバーを講演者を迎えて、立花隆氏が中心となって開催される「8月15日と南原繁を語る会」は、会場を安田講堂に変更することが出来、大幅に収容人数を増やすことが出来たものの、すでに定員の倍近くの2,000名ほどから申込が来ている模様。 現在、参加確認をしているので、それによってキャンセル待ちの方々へ席が回るかもしれません。 私自身は、南原研究会のメンバーとして実行委員会側で当日参加をします。 立花氏の 文章なども読むことが出来ますので、以下のサイトをご覧下さい。http://www.nanbara.net/top.php
2006/07/20のBlog
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ
今日の日経朝刊に掲載されたこの記事は、かなりのスクープといえるもの。終戦記念日まであと一ヶ月という時期もあって、影響が大きいだろう事はいうまでもない。ただこのことで靖国参拝の是非に結論が出たとまでは言うことができないだろう。これをもって分祀の動きが加速するとも思われない。ただし、今後の靖国の位置づけを巡る議論に大きな影響力を持つことは明らかであるように思われる。すなわち「戦没者のための追悼施設」という位置づけは、現状のままでは認められないものと考えられる。 余談ながら、メモが筑波藤麿宮司に触れられていたことから、筑波常治先生のコメントが掲載されていたのは、懐かしい感じがした。昨年、学士会の夕食会でお見かけしたが、相変わらず、緑の衣装に身を包まれておられた。 また8月15日には東大で南原繁関連のシンポジウム。立花隆氏の発案によるものですが、出演者は錚々たる面々で。案内はhttp://www.nanbara.net/top.phpにて。
今日の日経朝刊に掲載されたこの記事は、かなりのスクープといえるもの。終戦記念日まであと一ヶ月という時期もあって、影響が大きいだろう事はいうまでもない。ただこのことで靖国参拝の是非に結論が出たとまでは言うことができないだろう。これをもって分祀の動きが加速するとも思われない。ただし、今後の靖国の位置づけを巡る議論に大きな影響力を持つことは明らかであるように思われる。すなわち「戦没者のための追悼施設」という位置づけは、現状のままでは認められないものと考えられる。 余談ながら、メモが筑波藤麿宮司に触れられていたことから、筑波常治先生のコメントが掲載されていたのは、懐かしい感じがした。昨年、学士会の夕食会でお見かけしたが、相変わらず、緑の衣装に身を包まれておられた。 また8月15日には東大で南原繁関連のシンポジウム。立花隆氏の発案によるものですが、出演者は錚々たる面々で。案内はhttp://www.nanbara.net/top.phpにて。
2006/06/27のBlog
井上道義指揮のシベリウス
■ 第218回横浜定期演奏会 2006年 6月 24日 (土) 午後6時開演 横浜みなとみらいホール 《日本フィル創立指揮者・渡邉曉雄へのオマージュ》<指揮>井上道義<独唱>大久保光哉(バリトン)* シベリウス組曲「カレリア」~バラード『花咲く墓地での踊り』(オリジナル版より)を含む*《5つの歌》(作品38)より*第2曲「海辺のバルコニーで」第3曲「夜に」付帯音楽《クリスティアン2世》より*「蜘蛛の歌『果てしない森と』」《5つの歌》(作品37)より*第5曲「逢引きからもどった娘」《4つの伝説曲》より「トゥオネラの白鳥」付帯音楽《クオレマ》より「鶴のいる風景」交響曲第7番 http://www.japanphil.or.jp/cgi-bin/concert.cgi 日本フィルの横浜定期。みなとみらいは昨年のヤンソンス/バイエルン放響以来。それにしても2つの意味で、井上道義指揮には疑問だった。《フィンランディア》やヴァイオリン協奏曲はまだしも、そもそもあまり井上氏はシベリウスは振らないのでは?ということ。もうひとつは《日本フィル創立指揮者・渡邉曉雄へのオマージュ》と題したコンサートに、それほど近年の客演回数が多いわけではない、井上氏が招聘されていること。 とおもいつつも、逆に興味深いこともあって足を運んだコンサートは、期待以上の成果。前半のあまり聴く機会のない歌曲群も面白かったが、やはりメインの交響曲第7番の出来が秀逸。前半から好調であったがとにかく弦の美しさが際立っていた。これはシベリウスにおいて非常に重要な要素。集中力も高く、なにより井上氏自身がこの曲を非常によく把握しているようで、常にオーケストラを積極的にリードし盛り立て、音楽を造り上げている姿には感動を覚えた。下手に第2番などのメジャーな曲を選ばなかったのは大正解。
■ 第218回横浜定期演奏会 2006年 6月 24日 (土) 午後6時開演 横浜みなとみらいホール 《日本フィル創立指揮者・渡邉曉雄へのオマージュ》<指揮>井上道義<独唱>大久保光哉(バリトン)* シベリウス組曲「カレリア」~バラード『花咲く墓地での踊り』(オリジナル版より)を含む*《5つの歌》(作品38)より*第2曲「海辺のバルコニーで」第3曲「夜に」付帯音楽《クリスティアン2世》より*「蜘蛛の歌『果てしない森と』」《5つの歌》(作品37)より*第5曲「逢引きからもどった娘」《4つの伝説曲》より「トゥオネラの白鳥」付帯音楽《クオレマ》より「鶴のいる風景」交響曲第7番 http://www.japanphil.or.jp/cgi-bin/concert.cgi 日本フィルの横浜定期。みなとみらいは昨年のヤンソンス/バイエルン放響以来。それにしても2つの意味で、井上道義指揮には疑問だった。《フィンランディア》やヴァイオリン協奏曲はまだしも、そもそもあまり井上氏はシベリウスは振らないのでは?ということ。もうひとつは《日本フィル創立指揮者・渡邉曉雄へのオマージュ》と題したコンサートに、それほど近年の客演回数が多いわけではない、井上氏が招聘されていること。 とおもいつつも、逆に興味深いこともあって足を運んだコンサートは、期待以上の成果。前半のあまり聴く機会のない歌曲群も面白かったが、やはりメインの交響曲第7番の出来が秀逸。前半から好調であったがとにかく弦の美しさが際立っていた。これはシベリウスにおいて非常に重要な要素。集中力も高く、なにより井上氏自身がこの曲を非常によく把握しているようで、常にオーケストラを積極的にリードし盛り立て、音楽を造り上げている姿には感動を覚えた。下手に第2番などのメジャーな曲を選ばなかったのは大正解。
2006/06/19のBlog
公共哲学としての補完性原理
先日、12日(月)にCOEの対話研究会にて、補完性(subsidiarity)の原理に関する発表を行いました。もっとも研究会としてはCOEの単独主催ではなく、研究科のプロジェクトとの共催による《場所の感覚》をめぐる連続セミナーの一回としての開催でした。 幸い、発表自体は好評だったものの、《場所の感覚》との接点は???発表者自身、あまり十分に意識はできなかったので。 この発表では、単に公共哲学の観点から補完性の原理がもつ意味を問おうとしたのではなく、補完性の原理自体が、確かに曖昧で複数の潮流をもち、また「政治的に」利用される危険性を持つものでありながら、むしろそうであるが故に、「公共哲学」として鍛えなおして定式化することができないのではないか、という趣旨のメッセージをこめました。まだまだこれから中身を詰めていく必要はありますが、この夏に論文にする予定。 この後、早稲田の縣研究室での発表、現代行政研究会や千葉大の政治哲学研究会等で継続的に発表を行っていく予定です。縣研での発表の後にでも、プレゼンのパワーポイントファイルは公開の予定です。
先日、12日(月)にCOEの対話研究会にて、補完性(subsidiarity)の原理に関する発表を行いました。もっとも研究会としてはCOEの単独主催ではなく、研究科のプロジェクトとの共催による《場所の感覚》をめぐる連続セミナーの一回としての開催でした。 幸い、発表自体は好評だったものの、《場所の感覚》との接点は???発表者自身、あまり十分に意識はできなかったので。 この発表では、単に公共哲学の観点から補完性の原理がもつ意味を問おうとしたのではなく、補完性の原理自体が、確かに曖昧で複数の潮流をもち、また「政治的に」利用される危険性を持つものでありながら、むしろそうであるが故に、「公共哲学」として鍛えなおして定式化することができないのではないか、という趣旨のメッセージをこめました。まだまだこれから中身を詰めていく必要はありますが、この夏に論文にする予定。 この後、早稲田の縣研究室での発表、現代行政研究会や千葉大の政治哲学研究会等で継続的に発表を行っていく予定です。縣研での発表の後にでも、プレゼンのパワーポイントファイルは公開の予定です。
2006/06/19のBlog
追悼:岩城宏之氏、佐藤功太郎氏
海外からのリゲティ死去の報に続いて、日本の音楽界は2人の指揮者、岩城宏之氏、佐藤功太郎氏という逸材を失ったとの報。 岩城宏之氏のコンサートは実はそれほど行っていないかも知れない。ただ、黛敏郎氏のオペラ《金閣寺》の公演には足を運び、CDまで購入したほど。当時の「題名のない音楽会」でも一部が映像公開され、その録画はいまでもDVDにしてとってある。慣れないオペラの収録であったからか、カメラワークに難がないわけでもないが、作曲家も指揮者も逝ってしまった今、何とかこの映像が市販されないだろうか。岩城氏はこの秋にはN響の80周年定期で、黛氏の《曼荼羅交響曲》とストラヴィンスキーの《春の祭典》を取り上げる予定だったはず。誠に残念。数年前の都民芸術フェスティバルでストラヴィンスキーのバレエ音楽3曲を聴けたのは幸運だった。またエッセーの巧さは格別だった。とりわけやはり山本直純との学生時代を描いた『森の歌』は、評判も高い。 一方の佐藤氏はまだ62歳。十二指腸ガンでの死去。決してカリスマ的な指揮者ではなかったが、堅実な仕事をされる方で、芸大での教授としての功績は大きかったのでは。聴いた記憶では、神奈川県での団伊玖磨のオペラ《ひかりごけ》の上演がとくに残っている。その後ほぼ同じキャストにより録音も行われたが、指揮は現田茂夫になっていたのはやや残念だった。 お二人の御冥福をお祈りしたい。
海外からのリゲティ死去の報に続いて、日本の音楽界は2人の指揮者、岩城宏之氏、佐藤功太郎氏という逸材を失ったとの報。 岩城宏之氏のコンサートは実はそれほど行っていないかも知れない。ただ、黛敏郎氏のオペラ《金閣寺》の公演には足を運び、CDまで購入したほど。当時の「題名のない音楽会」でも一部が映像公開され、その録画はいまでもDVDにしてとってある。慣れないオペラの収録であったからか、カメラワークに難がないわけでもないが、作曲家も指揮者も逝ってしまった今、何とかこの映像が市販されないだろうか。岩城氏はこの秋にはN響の80周年定期で、黛氏の《曼荼羅交響曲》とストラヴィンスキーの《春の祭典》を取り上げる予定だったはず。誠に残念。数年前の都民芸術フェスティバルでストラヴィンスキーのバレエ音楽3曲を聴けたのは幸運だった。またエッセーの巧さは格別だった。とりわけやはり山本直純との学生時代を描いた『森の歌』は、評判も高い。 一方の佐藤氏はまだ62歳。十二指腸ガンでの死去。決してカリスマ的な指揮者ではなかったが、堅実な仕事をされる方で、芸大での教授としての功績は大きかったのでは。聴いた記憶では、神奈川県での団伊玖磨のオペラ《ひかりごけ》の上演がとくに残っている。その後ほぼ同じキャストにより録音も行われたが、指揮は現田茂夫になっていたのはやや残念だった。 お二人の御冥福をお祈りしたい。
2006/05/31のBlog
補完性の原理が新自由主義のイデオロギー???
COEのホームページでも告知いたしますが、6月12日(月)の対話研究会で、補完性(subsidiarity)の原理に関する発表を行う予定です。ようやく行政系の発表。 その準備を現在進めるなかで様々な文献をいろいろと目を通しているのですが、今日、地元の図書館(行政系の図書は大学より入手しやすい?!)より借りてきた安達智則著『自治体「構造改革」批判―「NPM」改革から市民の自治体へ」旬報社はかなり問題が多い。正直こんな本を2,500円+税を払わされて読まされてはたまらない。 確かに現在特に国レベルで進められている「構造改革」なるものの新自由主義的傾向は、無責任な政府を作り出し、個々人に責任を押し付ける危険性を持っており、「官から民へ」というスローガンも、政府の介入を少なくするというよりは、責任を回避する狙いがあることは否めないであろう。同時にNPMも、同じ流れで利用されてしまう危険性があること点も指摘することはできるかもしれない。 しかしながら「補完性の原理」まで同じ流れで理解するというのはいかがなものだろう。確かに新自由主義的傾向に回収される危険性がまったくない、とは言い切れないだろう。自己責任を強調し、政府(中央にしろ地方にしろ)の責任を問わなくてしてしまう危険性には注意が必要である。 しかしながら氏の論調は、所詮「補完性の原理」なるものは、ヨーロッパからの輸入品、それもヨーロッパにおいても政治的文脈で使われているだけなどという、きわめて噴飯ものな内容。通常まっさきにとりあげられるピオ11世の回勅には全く触れず、その意味内容を明らかにはしようとせずに、新自由主義のイデオロギーにすぎないというのは、あまりにいい加減な議論で、産湯と共に赤子まで流すようなもの。批判をするならば、本来こういう意味であるのが誤ってつかれていることを指摘すればいいこと。こんな言説がまかり通っては恐ろしい。「補完性の原理」こそ、市民による自治の思想を表現しているものはない。
COEのホームページでも告知いたしますが、6月12日(月)の対話研究会で、補完性(subsidiarity)の原理に関する発表を行う予定です。ようやく行政系の発表。 その準備を現在進めるなかで様々な文献をいろいろと目を通しているのですが、今日、地元の図書館(行政系の図書は大学より入手しやすい?!)より借りてきた安達智則著『自治体「構造改革」批判―「NPM」改革から市民の自治体へ」旬報社はかなり問題が多い。正直こんな本を2,500円+税を払わされて読まされてはたまらない。 確かに現在特に国レベルで進められている「構造改革」なるものの新自由主義的傾向は、無責任な政府を作り出し、個々人に責任を押し付ける危険性を持っており、「官から民へ」というスローガンも、政府の介入を少なくするというよりは、責任を回避する狙いがあることは否めないであろう。同時にNPMも、同じ流れで利用されてしまう危険性があること点も指摘することはできるかもしれない。 しかしながら「補完性の原理」まで同じ流れで理解するというのはいかがなものだろう。確かに新自由主義的傾向に回収される危険性がまったくない、とは言い切れないだろう。自己責任を強調し、政府(中央にしろ地方にしろ)の責任を問わなくてしてしまう危険性には注意が必要である。 しかしながら氏の論調は、所詮「補完性の原理」なるものは、ヨーロッパからの輸入品、それもヨーロッパにおいても政治的文脈で使われているだけなどという、きわめて噴飯ものな内容。通常まっさきにとりあげられるピオ11世の回勅には全く触れず、その意味内容を明らかにはしようとせずに、新自由主義のイデオロギーにすぎないというのは、あまりにいい加減な議論で、産湯と共に赤子まで流すようなもの。批判をするならば、本来こういう意味であるのが誤ってつかれていることを指摘すればいいこと。こんな言説がまかり通っては恐ろしい。「補完性の原理」こそ、市民による自治の思想を表現しているものはない。
2006/05/31のBlog
東響定期~ショスタコーヴィチ生誕100年
年間の定期会員になってしまった東京交響楽団の5月の定期公演は、表記のとおり、ショスタコーヴィチの生誕100年ということで、指揮にドミトリー・キタエンコ、ヴァイオリンに川久保賜紀 を迎えて、ヴァイオリン協奏曲第1番と交響曲第7番《レニングラード》。 川久保賜紀のヴァイオリンを聴くのは確か初めて。とくに特徴のある音色であるようには感じられなかったものの、テクニックは相当のもの。このとてつもない難曲を、体全体を使って余裕のある表情で弾き切ってしまうのは、たいしたもの。同じ曲を7月に庄司紗矢香で聴けるのは楽しみ(都響演奏会)。 さてメインの《レニングラード》は、10年前のマリス・ヤンソンス/レニングラード・フィルや藤岡幸夫(近々千葉大のオケを振るとか)/日本フィルの名演が記憶に強く残っているが、彼らのアプローチがどちらかといえば、政治的な文脈を意識させない純音楽的なアプローチであったのに対して、キタエンコのそれは証言以後のもの。冒頭から足取りは重く、フィナーレもちっともハ長調の響きには聴こえてこない。この曲が作曲された当時の抑圧的状況の心理的表現が、そのまま表われたような演奏というのは、名演には違いないし、この曲の真価を表現しているかもしれないが・・・つかれた。いずれにしても第3楽章が、冒頭のコラール風の部分をはじめとして美しい。ヤンソンスはコンセルトヘボウと今年も来日するが、ショスタコはなし。いや編成が大きいから《レニングラード》は無理でしょうけれども・・・。
年間の定期会員になってしまった東京交響楽団の5月の定期公演は、表記のとおり、ショスタコーヴィチの生誕100年ということで、指揮にドミトリー・キタエンコ、ヴァイオリンに川久保賜紀 を迎えて、ヴァイオリン協奏曲第1番と交響曲第7番《レニングラード》。 川久保賜紀のヴァイオリンを聴くのは確か初めて。とくに特徴のある音色であるようには感じられなかったものの、テクニックは相当のもの。このとてつもない難曲を、体全体を使って余裕のある表情で弾き切ってしまうのは、たいしたもの。同じ曲を7月に庄司紗矢香で聴けるのは楽しみ(都響演奏会)。 さてメインの《レニングラード》は、10年前のマリス・ヤンソンス/レニングラード・フィルや藤岡幸夫(近々千葉大のオケを振るとか)/日本フィルの名演が記憶に強く残っているが、彼らのアプローチがどちらかといえば、政治的な文脈を意識させない純音楽的なアプローチであったのに対して、キタエンコのそれは証言以後のもの。冒頭から足取りは重く、フィナーレもちっともハ長調の響きには聴こえてこない。この曲が作曲された当時の抑圧的状況の心理的表現が、そのまま表われたような演奏というのは、名演には違いないし、この曲の真価を表現しているかもしれないが・・・つかれた。いずれにしても第3楽章が、冒頭のコラール風の部分をはじめとして美しい。ヤンソンスはコンセルトヘボウと今年も来日するが、ショスタコはなし。いや編成が大きいから《レニングラード》は無理でしょうけれども・・・。
2006/05/24のBlog
千葉大のアールデコ
そういえばこのご案内を忘れていました。前回のミュシャに引き続き、千葉大学の図書館では「アール・デコの文様 ―Seguy,Benedictus,Thomasの作品を中心に―」を開催中。あくまでロビーの一角を使った展示なので、それほどたいしたものではないかもしれませんが、千葉大へおこしの際はぜひどうぞ。平日は9:00-21:45、土日は12:30-18:00で開館です。
そういえばこのご案内を忘れていました。前回のミュシャに引き続き、千葉大学の図書館では「アール・デコの文様 ―Seguy,Benedictus,Thomasの作品を中心に―」を開催中。あくまでロビーの一角を使った展示なので、それほどたいしたものではないかもしれませんが、千葉大へおこしの際はぜひどうぞ。平日は9:00-21:45、土日は12:30-18:00で開館です。
2006/05/23のBlog
いわゆる「市場の判断」なるもの
ちょうど記事を作成をしようと思ったところが、長期(5/15~18)のメンテナンスで閲覧もできない状態でした。ということですでに先の記事から一ヶ月近く経ってしまいましたが・・・すい星落下で株急落? 「25日に大津波」予言などというお話があるとか。すでに某匿名掲示板ではちょっとした話題になっていましたが、株価に影響を与えるとは・・・。個人投資家が増加していることで、不安定要因が悪材料として大きく作用してしまうことは度々指摘されていること。市場の判断が、このような心理的作用にますます左右されるようになるということは、それだけ当てにすることは難しいものとなる。そんなものをあてにするような「市場至上主義者」は理解に苦しみますね。 行政学会でNPMの議論などもありましたが、行政(パブリックセクター)に効率性を導入することと、行政の業務を削減して市場に任せることとは必ずしも同じではないですよね。「小さな政府」論が批判されるなかで、NPMまで批判されてしまうと「産湯と一緒に赤子まで・・・」ということになりかねないのではと懸念。
ちょうど記事を作成をしようと思ったところが、長期(5/15~18)のメンテナンスで閲覧もできない状態でした。ということですでに先の記事から一ヶ月近く経ってしまいましたが・・・すい星落下で株急落? 「25日に大津波」予言などというお話があるとか。すでに某匿名掲示板ではちょっとした話題になっていましたが、株価に影響を与えるとは・・・。個人投資家が増加していることで、不安定要因が悪材料として大きく作用してしまうことは度々指摘されていること。市場の判断が、このような心理的作用にますます左右されるようになるということは、それだけ当てにすることは難しいものとなる。そんなものをあてにするような「市場至上主義者」は理解に苦しみますね。 行政学会でNPMの議論などもありましたが、行政(パブリックセクター)に効率性を導入することと、行政の業務を削減して市場に任せることとは必ずしも同じではないですよね。「小さな政府」論が批判されるなかで、NPMまで批判されてしまうと「産湯と一緒に赤子まで・・・」ということになりかねないのではと懸念。
2006/04/26のBlog
国家一種申込者、大幅減で過去最低
訳のわからない改革が進められるなかで、公務員は一律削減というようなことが行われる一方、国家公務員一種試験の申込者は、「景気回復で民間の採用獲得競争が激しい」(人事院)なかで、大幅に減少、過去最低となったという。
一種試験合格採用組みは「いわゆるキャリア」であるわけであるが、もし国家行政の重要な一角を担うべき人材が、景気に左右されているというのは問題ではないだろうか。あるいは逆風の中で、狭き門を通ってきた人材の方が望ましいということも考えれなくもない。 「いわゆるキャリア」組は決して「勝ち組」ではなく、実際の業務はきつく、若手は使い走りだし、全国どこへ行かされるかわからないというなかで(実際にはかなりのイメージだという部分もこの記述にはあるが)、地方上級へ流れているという話も以前からある。 当然のことながら、「いわゆるキャリア」が国家行政において果たす役割等々には、議論の余地が大いにありうるわけであるが、少なくとも国家中枢の重要な職業である以上、景気に左右されて人材が流出するような事態というのは、公益に反するとみなさざるをえないのではないだろうか。
訳のわからない改革が進められるなかで、公務員は一律削減というようなことが行われる一方、国家公務員一種試験の申込者は、「景気回復で民間の採用獲得競争が激しい」(人事院)なかで、大幅に減少、過去最低となったという。
一種試験合格採用組みは「いわゆるキャリア」であるわけであるが、もし国家行政の重要な一角を担うべき人材が、景気に左右されているというのは問題ではないだろうか。あるいは逆風の中で、狭き門を通ってきた人材の方が望ましいということも考えれなくもない。 「いわゆるキャリア」組は決して「勝ち組」ではなく、実際の業務はきつく、若手は使い走りだし、全国どこへ行かされるかわからないというなかで(実際にはかなりのイメージだという部分もこの記述にはあるが)、地方上級へ流れているという話も以前からある。 当然のことながら、「いわゆるキャリア」が国家行政において果たす役割等々には、議論の余地が大いにありうるわけであるが、少なくとも国家中枢の重要な職業である以上、景気に左右されて人材が流出するような事態というのは、公益に反するとみなさざるをえないのではないだろうか。
2006/04/11のBlog
ムーティ/ヴェルレク&BCJ《マタイ》(初期稿)
4月に入り充実の演奏会を2つ。 6日(木)の東京のオペラの森オーケストラ公演でのリッカルド・ムーティ指揮による、ヴェルディの《レクイエム》は期待以上の演奏。昨年のウィーンフィルとの演奏は、対等な関係での誠実な音楽創りを満喫することができたのに対して、今回は完全に全てがムーティの掌中に収められた演奏で、まさに「帝王」。 この曲はパバロッティ、スカラ座との演奏で昔から聴き慣れていて、特に「リベラ・メ」のクライマックスで、バスと上三声の掛け合いの後、「tutta forza」で「Domine,・・・」を歌う部分、この直前でムーティはリタルダンドをして、この部分へ入り、その後アッチェランドをかけてもとのテンポへ戻すのがとってもお気に入りだった。今回もさまざまな場面で、このようにテンポ自在に換えて、ヴェルディの「歌」を満喫させてくれる演奏だった。当該部分も「Domine」がかつての録音で記憶にあった以上に強調されており、満足。この公演に関しては以下のブログが、いろいろな情報を集めていて興味深い。http://il-figlio-del-sud.cocolog-nifty.com/bravomuti/翌日、パイオニアでの練習で同じ曲を歌ったわけだが、同行者と「やっぱり同じ曲とは思えない」と異口同音。初めてソロの部分も歌うが、やっぱり声質が合わない気がする。 続いて8日(土)にミューザ川崎でBCJのマタイ(初期稿)。ミューザという大きな会場での演奏には抵抗があったものの(サントリーでの公演には行かないことにしている)、1階平土間部分が少なく、どの席からもかなり舞台が近く感じられるこの会場は、3階正面の大変いい条件で聴くことができ、改めてこのホールの素晴らしさを感じさせるものだった。演奏はもちろん、彼らには「当然の」(?)素晴らしい演奏。今回は初期稿を採用で、最初の曲で少年合唱が担当することの多いコラールをパイプオルガンのみが担当したのは、このホールのパイプオルガンを聴くことができる意味では興味深かったが、残念ながら響きも音量もテンポもずれが生じ、成功とは言いがたい結果に終わったことは少々残念。それにしてもこの団体の演奏が、高い集中力・緊張感ながら、実に生き生きとした余裕を感じさせ、3時間近いこの曲を全く冗長なものにしてしまわないことには殆ど唖然とさせられるものがある。 そしてやはり受難曲を聴くと言うのは、ただ演奏会に行くというのとは明らかに異なる特別な「経験」であることを改めて感じさせてくれたことに何より感謝をしたいものです。
4月に入り充実の演奏会を2つ。 6日(木)の東京のオペラの森オーケストラ公演でのリッカルド・ムーティ指揮による、ヴェルディの《レクイエム》は期待以上の演奏。昨年のウィーンフィルとの演奏は、対等な関係での誠実な音楽創りを満喫することができたのに対して、今回は完全に全てがムーティの掌中に収められた演奏で、まさに「帝王」。 この曲はパバロッティ、スカラ座との演奏で昔から聴き慣れていて、特に「リベラ・メ」のクライマックスで、バスと上三声の掛け合いの後、「tutta forza」で「Domine,・・・」を歌う部分、この直前でムーティはリタルダンドをして、この部分へ入り、その後アッチェランドをかけてもとのテンポへ戻すのがとってもお気に入りだった。今回もさまざまな場面で、このようにテンポ自在に換えて、ヴェルディの「歌」を満喫させてくれる演奏だった。当該部分も「Domine」がかつての録音で記憶にあった以上に強調されており、満足。この公演に関しては以下のブログが、いろいろな情報を集めていて興味深い。http://il-figlio-del-sud.cocolog-nifty.com/bravomuti/翌日、パイオニアでの練習で同じ曲を歌ったわけだが、同行者と「やっぱり同じ曲とは思えない」と異口同音。初めてソロの部分も歌うが、やっぱり声質が合わない気がする。 続いて8日(土)にミューザ川崎でBCJのマタイ(初期稿)。ミューザという大きな会場での演奏には抵抗があったものの(サントリーでの公演には行かないことにしている)、1階平土間部分が少なく、どの席からもかなり舞台が近く感じられるこの会場は、3階正面の大変いい条件で聴くことができ、改めてこのホールの素晴らしさを感じさせるものだった。演奏はもちろん、彼らには「当然の」(?)素晴らしい演奏。今回は初期稿を採用で、最初の曲で少年合唱が担当することの多いコラールをパイプオルガンのみが担当したのは、このホールのパイプオルガンを聴くことができる意味では興味深かったが、残念ながら響きも音量もテンポもずれが生じ、成功とは言いがたい結果に終わったことは少々残念。それにしてもこの団体の演奏が、高い集中力・緊張感ながら、実に生き生きとした余裕を感じさせ、3時間近いこの曲を全く冗長なものにしてしまわないことには殆ど唖然とさせられるものがある。 そしてやはり受難曲を聴くと言うのは、ただ演奏会に行くというのとは明らかに異なる特別な「経験」であることを改めて感じさせてくれたことに何より感謝をしたいものです。
2006/03/15のBlog
オゾン層破壊と温暖化?
今日のニュースで大変衝撃的だったのは「温暖化の原因は?オゾン層破壊かCO2か…正解は1割」読売オンラインよりhttp://www.yomiuri.co.jp/science/news/20060315i408.htm オゾン層の問題は、まだ現在ほど参考文献もない中学生のときから関心を持っているからかもしれないものの・・・。あのころ(もう20年近く前?)は、オゾン層の破壊などにはあまり関心は払われていなかった。しかも、いまでこそ破壊の原因とされたフロン・ガスは使われなくなっているが、そもそもオゾン層に達するまでに時間がかかるので、使用をとめたところで、簡単に破壊を食い止めることはできない、という話も記憶に残っている。 ところで、1割が正解といっても。温暖化の原因がCO2であるかどうかには疑問も多いといわれている。たとえば政治的な背景まで説明した田中宇氏の議論などが興味深い。 いやはやそれにしてもこの調査結果にはぼうぜん・・・
今日のニュースで大変衝撃的だったのは「温暖化の原因は?オゾン層破壊かCO2か…正解は1割」読売オンラインよりhttp://www.yomiuri.co.jp/science/news/20060315i408.htm オゾン層の問題は、まだ現在ほど参考文献もない中学生のときから関心を持っているからかもしれないものの・・・。あのころ(もう20年近く前?)は、オゾン層の破壊などにはあまり関心は払われていなかった。しかも、いまでこそ破壊の原因とされたフロン・ガスは使われなくなっているが、そもそもオゾン層に達するまでに時間がかかるので、使用をとめたところで、簡単に破壊を食い止めることはできない、という話も記憶に残っている。 ところで、1割が正解といっても。温暖化の原因がCO2であるかどうかには疑問も多いといわれている。たとえば政治的な背景まで説明した田中宇氏の議論などが興味深い。 いやはやそれにしてもこの調査結果にはぼうぜん・・・
2006/03/15のBlog
グラハム・クラッカーを求めて
今日は純粋な日記を一つ。 ひさびさにレア・チーズを作ろうと、ベースに使うグラハム・クラッカーを買い求めに行ったのですが、どこのスーパーにもなく。自宅周辺にはかなりの種類あるのですが・・・。輸入食品を扱っているところにもなく。 ついに銀座の明治屋へ。店員に聞いてみたところ、使っている油が問題で輸入禁止になったとか。即答だったのでさすがは、と思いつつ衝撃を受けました。なるほどないわけです。 ならば何か代用になるものはないかと思いつつ、ネットで検索をしてみれば、国産のものもあるらしく。森永なども作っているらしいが、富澤商店なるところで扱っており、しかもその店舗がとなり駅にはあるではありませんか。さっそく購入してひさびさに作ってみましたが、やっぱりこの香ばしさはグラハムではなくては。 レシピに書いてあるのに手に入らないという方々のために。富沢商店、かなりいろいろとなものが揃っていて面白いものでした。
今日は純粋な日記を一つ。 ひさびさにレア・チーズを作ろうと、ベースに使うグラハム・クラッカーを買い求めに行ったのですが、どこのスーパーにもなく。自宅周辺にはかなりの種類あるのですが・・・。輸入食品を扱っているところにもなく。 ついに銀座の明治屋へ。店員に聞いてみたところ、使っている油が問題で輸入禁止になったとか。即答だったのでさすがは、と思いつつ衝撃を受けました。なるほどないわけです。 ならば何か代用になるものはないかと思いつつ、ネットで検索をしてみれば、国産のものもあるらしく。森永なども作っているらしいが、富澤商店なるところで扱っており、しかもその店舗がとなり駅にはあるではありませんか。さっそく購入してひさびさに作ってみましたが、やっぱりこの香ばしさはグラハムではなくては。 レシピに書いてあるのに手に入らないという方々のために。富沢商店、かなりいろいろとなものが揃っていて面白いものでした。
2006/03/08のBlog
『ウンコな議論』
引き続き、論文の書き方関係で。ひさびさに読売の書評に興味深い書籍が登場。題名は『ウンコな議論』(筑摩書房刊、2006年1月)。プリンストンですでに名誉教授になっているフランクファート(Harry G. Frankfurt)による著書の翻訳。書評はこちらで読むことができます。「主張が現状にほんとうに即しているのか、きちんと吟味する態度を欠いたまま、言葉をたれ流してしまう」ことをウンコ(bullshit:たわごと)と読んでいるとか。来年のテキストに指定したいとも。山形浩正氏が翻訳をされたとか。おもわずなるほど、それでこの題名かと?!。ちなみに本文と山形氏による解説がほぼ同じ厚さとか。原書はこちら。情報を探しているなかで、研究者への道へ導かれた(てしまった、か)きかっけとなられた某先輩のblog へ到達。ひさびさにOB会でお会いできるかもしれません。
引き続き、論文の書き方関係で。ひさびさに読売の書評に興味深い書籍が登場。題名は『ウンコな議論』(筑摩書房刊、2006年1月)。プリンストンですでに名誉教授になっているフランクファート(Harry G. Frankfurt)による著書の翻訳。書評はこちらで読むことができます。「主張が現状にほんとうに即しているのか、きちんと吟味する態度を欠いたまま、言葉をたれ流してしまう」ことをウンコ(bullshit:たわごと)と読んでいるとか。来年のテキストに指定したいとも。山形浩正氏が翻訳をされたとか。おもわずなるほど、それでこの題名かと?!。ちなみに本文と山形氏による解説がほぼ同じ厚さとか。原書はこちら。情報を探しているなかで、研究者への道へ導かれた(てしまった、か)きかっけとなられた某先輩のblog へ到達。ひさびさにOB会でお会いできるかもしれません。
2006/03/02のBlog
プレジデントを買ってみる
決してブログのことを忘れるほど慌しかった訳ではないにせよ、ついつい書き込みを怠ることは良いことではないですね。すでに3月に入ってしまいました。 しかし先週はサンデルの翻訳の件で、拘束時間が長かったことは確か。 さて、おそらくは初めてのこととして隔週で発売されている雑誌《プレジデント》を購入(2006 3.20号)。 特集が「『考え方』革命」というものだったので、ちょうど高崎経済大での講義と関係があるかもと思って購入。それなりに面白いものでした。 高崎での講義で必ず最初に言うことは、「論文の読み方・書き方」という授業は、必ずしも論文の書き方のイロハを教えるものではないし、卒論を書くテクニックや研究者になるための技術を教えるものではないということ。むしろ、企業等に就職したとしても、必ず求められる「相手の考えを理解する、自分の考えを伝える」ための「論理的能力」を養うため、それも誰かの受け売りの議論をするのではなく「自分の頭で考える」ことを目指していることを強調しています。 今回の特集を読んでいて、やはり「論理的」であることは「相手」が決めることという点がまず強調されていた点が興味深い。論理とは、何か客観的な、機械的なイメージをもたれがちであるし、その点も重要な点であるが、そもそも論理的というのは"logical"という言葉よりは"reasonable"の方がしっくりくる。つまり"reason+able"ということで、十分な理由(reason)をもって、相手に納得してもらう点が求められる。 「論理的」の客観性という側面は、だいたいおおよその人であれば納得してもらえるだろう、という意味においての客観性で、そもそも人間の作り上げるものに完璧なものは存在しない以上、100%の客観性も存在しない。あくまで、現時点でみなが納得している程度のものであろう(やっぱり、ポパー)。 論文にしても、ビジネスにしても、求められることは相手にきちんと自分の考えを伝えることができるかどうか、それも相手の求めているものを理解しつつという点であろう。 また妹尾堅一郎氏による「名案が浮かぶ『思索のツール』活用法」も興味深く、彼の言う「問題解決症候群」(問題は与えられるものであり、その問題には唯一の正解があり、その正解は誰かが知っている)は、まさに私たち教員の間でも共有されている問題意識である。そもそも問題そのものも自分で探さなくてはならないし、それに対する答えも自分で探していかなければならない。その探索のプロセスこそが【自分の頭で考える】ことなのであるが、受験勉強で知識吸収型の勉強ばかりをしてきてしまうと、正解が出さないといけない、ということで、参考資料を探したりしてしまう。何か適当なものが見つかると、これでいいや、といって少ない資料(それも一冊だったりする)でレポートや論文を書こうとしてしまう。あまつさえ、そのまま書き写す(ネットであればコピペで簡単に)ことに繋がる。 確かに自分の頭できちんと考えることは、ある程度の知識(=材料)がないとできないし、面倒な作業ではある。しかしそれがある程度できたときの喜びが判ってもらえるとあるいはこういった能力は飛躍的に伸びるのだが。一番難しいのは、無気力な学生の場合。特別なにがやりたいわけでもないし、とりあえずで来ている学生の志気を高める方法ばかりは難しい。 ちなみに後ろから雑誌をぱらぱらめくっていたので面白かったのは「『学歴の結婚力』女のホンネと男の勘違い」。なかなか切実ではありますが。自分が高偏差値大卒だから気楽に読めるだろう、というよりは、収入がどうのこうのという世界に生きていないので、世間の動向はそんなものなのだなあと見ることができるというのがおそらく正確。
決してブログのことを忘れるほど慌しかった訳ではないにせよ、ついつい書き込みを怠ることは良いことではないですね。すでに3月に入ってしまいました。 しかし先週はサンデルの翻訳の件で、拘束時間が長かったことは確か。 さて、おそらくは初めてのこととして隔週で発売されている雑誌《プレジデント》を購入(2006 3.20号)。 特集が「『考え方』革命」というものだったので、ちょうど高崎経済大での講義と関係があるかもと思って購入。それなりに面白いものでした。 高崎での講義で必ず最初に言うことは、「論文の読み方・書き方」という授業は、必ずしも論文の書き方のイロハを教えるものではないし、卒論を書くテクニックや研究者になるための技術を教えるものではないということ。むしろ、企業等に就職したとしても、必ず求められる「相手の考えを理解する、自分の考えを伝える」ための「論理的能力」を養うため、それも誰かの受け売りの議論をするのではなく「自分の頭で考える」ことを目指していることを強調しています。 今回の特集を読んでいて、やはり「論理的」であることは「相手」が決めることという点がまず強調されていた点が興味深い。論理とは、何か客観的な、機械的なイメージをもたれがちであるし、その点も重要な点であるが、そもそも論理的というのは"logical"という言葉よりは"reasonable"の方がしっくりくる。つまり"reason+able"ということで、十分な理由(reason)をもって、相手に納得してもらう点が求められる。 「論理的」の客観性という側面は、だいたいおおよその人であれば納得してもらえるだろう、という意味においての客観性で、そもそも人間の作り上げるものに完璧なものは存在しない以上、100%の客観性も存在しない。あくまで、現時点でみなが納得している程度のものであろう(やっぱり、ポパー)。 論文にしても、ビジネスにしても、求められることは相手にきちんと自分の考えを伝えることができるかどうか、それも相手の求めているものを理解しつつという点であろう。 また妹尾堅一郎氏による「名案が浮かぶ『思索のツール』活用法」も興味深く、彼の言う「問題解決症候群」(問題は与えられるものであり、その問題には唯一の正解があり、その正解は誰かが知っている)は、まさに私たち教員の間でも共有されている問題意識である。そもそも問題そのものも自分で探さなくてはならないし、それに対する答えも自分で探していかなければならない。その探索のプロセスこそが【自分の頭で考える】ことなのであるが、受験勉強で知識吸収型の勉強ばかりをしてきてしまうと、正解が出さないといけない、ということで、参考資料を探したりしてしまう。何か適当なものが見つかると、これでいいや、といって少ない資料(それも一冊だったりする)でレポートや論文を書こうとしてしまう。あまつさえ、そのまま書き写す(ネットであればコピペで簡単に)ことに繋がる。 確かに自分の頭できちんと考えることは、ある程度の知識(=材料)がないとできないし、面倒な作業ではある。しかしそれがある程度できたときの喜びが判ってもらえるとあるいはこういった能力は飛躍的に伸びるのだが。一番難しいのは、無気力な学生の場合。特別なにがやりたいわけでもないし、とりあえずで来ている学生の志気を高める方法ばかりは難しい。 ちなみに後ろから雑誌をぱらぱらめくっていたので面白かったのは「『学歴の結婚力』女のホンネと男の勘違い」。なかなか切実ではありますが。自分が高偏差値大卒だから気楽に読めるだろう、というよりは、収入がどうのこうのという世界に生きていないので、世間の動向はそんなものなのだなあと見ることができるというのがおそらく正確。
2006/01/30のBlog
千葉大のアール・ヌーヴォー
昨年の「アール・ヌーヴォーの花文様」に引き続き、千葉大附属図書館では「ミュシャのデザイン ―「装飾資料集」「装飾人物集」から―」を1/10~4/30で開催中。やはり東京高等工芸学校の蔵書。 ここまであるとなると、東京都庭園美術館ででも、所蔵品展を開催したらどうかと本気で願ってしまう。
昨年の「アール・ヌーヴォーの花文様」に引き続き、千葉大附属図書館では「ミュシャのデザイン ―「装飾資料集」「装飾人物集」から―」を1/10~4/30で開催中。やはり東京高等工芸学校の蔵書。 ここまであるとなると、東京都庭園美術館ででも、所蔵品展を開催したらどうかと本気で願ってしまう。
2006/01/04のblog
公務員制度改革
新年、あけましておめでとうございます。旧年中は、皆様に大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。 昨年の記事だが、日経新聞朝刊に連載された「官を開く」の第3部「公務員はどこへ」は興味深いものだった(12/5~8掲載)。 特に12/6の第2回「身分保障の幻想」は、公務員の身分保障についてもちろん若干の知識は有していたものの、「公務員の出血整理や本人の意に反する配置転換は行わない」という付帯決議が、「当時強かった社会党の支持基盤である労働組合に配慮した」結果であることは知らなかった。「55年体制」の遺物であるとか。 再三、ILOがわが国の公務員の基本権見直しに関して勧告を行っていることは有名である。単なる数減らしをすることに意義は感じないが、そもそもどう人員を配置するか=人材を活用するかができないのであれば、改革も何も意味がない。 最近の政府にしろ日経にしろ、やたらと「小さな政府を」のスローガンが目立つが、単に民同様にリストラをする、能力評価をする、官民の人材移動の流動化をする(アメリカ並みに?!)といっても、それで「効果的な政府」になるとはいえない。まして、アメリカの公務員制度が世界の中でも例外的出るのは、少し調べればわかること。イギリスにおける政官関係には触れていても(黒子に徹しても政策の専門家として働いている:第4回)、その人事制度がどうなっているのか(すなわちわが国以上に「エリート主義」であり、だからこそNPMのようなことが実施できた)ことには触れていない。 改革の方向性は「小さな政府」ではなく「小さくとも効率的な政府」であるべきであり、本来NPMというものはそのような思想に基づくものである。改革を断行しなければならない=数を減らさなければならないというのは、あまりに「貧困な発想」である。
新年、あけましておめでとうございます。旧年中は、皆様に大変お世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。 昨年の記事だが、日経新聞朝刊に連載された「官を開く」の第3部「公務員はどこへ」は興味深いものだった(12/5~8掲載)。 特に12/6の第2回「身分保障の幻想」は、公務員の身分保障についてもちろん若干の知識は有していたものの、「公務員の出血整理や本人の意に反する配置転換は行わない」という付帯決議が、「当時強かった社会党の支持基盤である労働組合に配慮した」結果であることは知らなかった。「55年体制」の遺物であるとか。 再三、ILOがわが国の公務員の基本権見直しに関して勧告を行っていることは有名である。単なる数減らしをすることに意義は感じないが、そもそもどう人員を配置するか=人材を活用するかができないのであれば、改革も何も意味がない。 最近の政府にしろ日経にしろ、やたらと「小さな政府を」のスローガンが目立つが、単に民同様にリストラをする、能力評価をする、官民の人材移動の流動化をする(アメリカ並みに?!)といっても、それで「効果的な政府」になるとはいえない。まして、アメリカの公務員制度が世界の中でも例外的出るのは、少し調べればわかること。イギリスにおける政官関係には触れていても(黒子に徹しても政策の専門家として働いている:第4回)、その人事制度がどうなっているのか(すなわちわが国以上に「エリート主義」であり、だからこそNPMのようなことが実施できた)ことには触れていない。 改革の方向性は「小さな政府」ではなく「小さくとも効率的な政府」であるべきであり、本来NPMというものはそのような思想に基づくものである。改革を断行しなければならない=数を減らさなければならないというのは、あまりに「貧困な発想」である。
2005/12/19のBlog
「ケンブリッジ・モメント」終了いたしました
千葉大のCOEプロジェクトで公共哲学部門にとっての最も重要な企画、国際シンポジウム「ケンブリッジ・モメント」は、なんとか終えることが出来ました。他部門の方々にも相当のご負担をおかけしての開催は、まさに公共研究センターが総力を挙げて開催にこぎつけたシンポジウムでした。私自身は現場を取り仕切る役割で、今回はパワーポイントなどPCを使う必要が少なかったこともあり、機器のトラブルはほとんどなし。かなり3日間にも及んだシンポジウムにしては奇跡的だったかと。いつもマイクトラブルなどに悩まされている身としてはそれだけで「大成功」でした。 かなり貴重な報告も多かった今回のシンポジウム。申し込み制にしたので、幸いにして250部用意した資料は、増刷の必要なく乗り切ることが出来ました。資料のみをご希望の方への対応は、メールマガジンにてお伝えする予定です。「公共研究通信」http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000145216
千葉大のCOEプロジェクトで公共哲学部門にとっての最も重要な企画、国際シンポジウム「ケンブリッジ・モメント」は、なんとか終えることが出来ました。他部門の方々にも相当のご負担をおかけしての開催は、まさに公共研究センターが総力を挙げて開催にこぎつけたシンポジウムでした。私自身は現場を取り仕切る役割で、今回はパワーポイントなどPCを使う必要が少なかったこともあり、機器のトラブルはほとんどなし。かなり3日間にも及んだシンポジウムにしては奇跡的だったかと。いつもマイクトラブルなどに悩まされている身としてはそれだけで「大成功」でした。 かなり貴重な報告も多かった今回のシンポジウム。申し込み制にしたので、幸いにして250部用意した資料は、増刷の必要なく乗り切ることが出来ました。資料のみをご希望の方への対応は、メールマガジンにてお伝えする予定です。「公共研究通信」http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000145216
2005/12/19のblog
「プーシキン美術館展」&「スコットランド国立美術館展」
開催前から絶対に見逃すことは出来ないと思っていたマティスの「金魚」。とにかくこれを見るためだけでも行かなくてはと思っていた「プーシキン美術館展」(東京都美術館)。会期終了が近い平日の昼頃に訪れましたが、結構な人の入り。入場制限が行われた日もあったとか。 さて今回の出品作品のなかでマティスを除いて最も目を惹いたのは、ゴッホの「刑務所の中庭」。ゴッホは特別好きなわけでもなく、今年のゴッホ展にも足を運ばなかったのですが、この作品には目にしたと同時に引き寄せられるような「威力」を持っていました。一般的な解説として、この作品がゴッホの晩年の作であり、囚人の表情とゴッホの当時の心情との関連が指摘されるわけですが、それ以上に「中庭」という場所そのもの、つまりは周りを塀で囲まれ、光が上から差し込む空間、というものに意味があるのではと感じました。もし囚人の状況と自らの心的状態をパラレルに描きたいのであれば、もっと囚人に焦点を合わせた描き方をするでしょう。私にとってはその囚人の表情よりも、上半分の光の差し込む空間に目が行きました。あるいは、この作品はその「対比」も注目すべき点かもしれません。 お目当てのマティスは「相変わらず下手」と思いつつ・・・。いやはやこの色彩と、構成はやはりマティスでないと表現できません。金魚だけでなく、その前にあった比較的初期の作品も興味深く。でもリストがいま手許にないので、とりあえず。ちなみに、千葉大生協ではちょっと意外にもTASCHEN社のフェアーで15%引きを実施中。マティスの解説本はすでに購入済みなので、ポストカード集をもっているかもしれない、と思いつつ購入。あとはバウハウスの解説本を買おうどうかと思案中。フンデルトバッサーの結構大型のものもあって興味深いがさすがにちょっと高い。 もうひとつはオークションで安く招待券を手に入れられた「スコットランド国立美術館展」(BUNKAMURA)。特別お目当ての作品があっていったわけではないものの、すなおに風景画等を楽しめるものでした。あえて一つをとればクールベの「峡谷の川」。圧巻でした。ああやっぱり青が好きなんだなあ、と。その意味ではキャメロンの「青白い光」もいい作品でした。水彩ですけれども。 他にはモネの「積み藁、雪の効果」が秀逸。雪と光という私好みの主題の作品。すっかりその空間に浸ってしまいました。 風景画が多い一方でアンリ・ファンタン=ラトゥールによる花の「肖像画」も素晴らしいもの。油絵をやるのであれば、こういう作品を描けるようになりたいと。やはりデッサンぐらいは習いたいと思いつつ、その時間はなかなか・・・。
開催前から絶対に見逃すことは出来ないと思っていたマティスの「金魚」。とにかくこれを見るためだけでも行かなくてはと思っていた「プーシキン美術館展」(東京都美術館)。会期終了が近い平日の昼頃に訪れましたが、結構な人の入り。入場制限が行われた日もあったとか。 さて今回の出品作品のなかでマティスを除いて最も目を惹いたのは、ゴッホの「刑務所の中庭」。ゴッホは特別好きなわけでもなく、今年のゴッホ展にも足を運ばなかったのですが、この作品には目にしたと同時に引き寄せられるような「威力」を持っていました。一般的な解説として、この作品がゴッホの晩年の作であり、囚人の表情とゴッホの当時の心情との関連が指摘されるわけですが、それ以上に「中庭」という場所そのもの、つまりは周りを塀で囲まれ、光が上から差し込む空間、というものに意味があるのではと感じました。もし囚人の状況と自らの心的状態をパラレルに描きたいのであれば、もっと囚人に焦点を合わせた描き方をするでしょう。私にとってはその囚人の表情よりも、上半分の光の差し込む空間に目が行きました。あるいは、この作品はその「対比」も注目すべき点かもしれません。 お目当てのマティスは「相変わらず下手」と思いつつ・・・。いやはやこの色彩と、構成はやはりマティスでないと表現できません。金魚だけでなく、その前にあった比較的初期の作品も興味深く。でもリストがいま手許にないので、とりあえず。ちなみに、千葉大生協ではちょっと意外にもTASCHEN社のフェアーで15%引きを実施中。マティスの解説本はすでに購入済みなので、ポストカード集をもっているかもしれない、と思いつつ購入。あとはバウハウスの解説本を買おうどうかと思案中。フンデルトバッサーの結構大型のものもあって興味深いがさすがにちょっと高い。 もうひとつはオークションで安く招待券を手に入れられた「スコットランド国立美術館展」(BUNKAMURA)。特別お目当ての作品があっていったわけではないものの、すなおに風景画等を楽しめるものでした。あえて一つをとればクールベの「峡谷の川」。圧巻でした。ああやっぱり青が好きなんだなあ、と。その意味ではキャメロンの「青白い光」もいい作品でした。水彩ですけれども。 他にはモネの「積み藁、雪の効果」が秀逸。雪と光という私好みの主題の作品。すっかりその空間に浸ってしまいました。 風景画が多い一方でアンリ・ファンタン=ラトゥールによる花の「肖像画」も素晴らしいもの。油絵をやるのであれば、こういう作品を描けるようになりたいと。やはりデッサンぐらいは習いたいと思いつつ、その時間はなかなか・・・。
2005/11/28のBlog
10年ぶりのヤンソンス
どうにかこうにか博論に片をつけたので、早速とばかりにマリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団の演奏会へ。ちょうど安い券を譲ってくださる方がおられたので。 会場も久々の横浜みなとみらいホール。学生でなくなってからすっかりご無沙汰。今回はかなり舞台に近いバルコニー席。高い(完全に舞台を見下ろす感じ)というのが少々になるほかは、いいかんじ。会場へのアクセスは値段が相当高くなったが、みなとみらい線のおかげで、桜木町から歩かなくてもすまなくなったことはありがたい。どうしてもあの「空間」は何度行っても気持ちが悪い。なにか人工物で埋め尽くされたような空間だからであろうか。とにかく長居をしたい空間ではない。 さてそれはさておき、前半はイェフィム・ブロンフマンのピアノで、チャイコフスキーのコンチェルト。先日アファナシエフを聴いているだけに、その対照ぶりはすさまじいものが。とにかく体全体でものすごい迫力。とはいえ、後ろから見ているとよくわかるのが、力任せでは決してなく、流れ出る音楽は乱雑にならず流麗なもの。まあでもフィナーレは相当オケとの崩壊寸前の格闘技。いや凄かったのなんのって、という感じ。彼は昨年、ゲルギエフ/ウィーン・フィルとラフマニノフをやったとか。あまり聴きたいとは・・・ 後半はショスタコーヴィチの第5番。私とヤンソンスの出会いは、1988年に彼がレニングラード・フィルと録音したショスタコーヴィチの第7番。そのロシアらしからぬ?都会的な洗練された響きが当時は評判で、その後、95年にウィーンで彼らの実演を聴く。その当時、ウィーンではすでに圧倒的な人気を誇っていました。前半のプログラムに遅れたことを隣席の男性(まったく知らない人)にたしなめられたほどで・・・。 その後、たびたびヤンソンスは来日して、日本でも評判もうなぎ上りですが、ショスタコーヴィチはいつも5番ばかり。それで聴きにいかなかったこともあったのですが、いやいやなんのなんの、名曲であり私自身ももう何度も聴き、スコアも読んだこの曲の真価を見せてくださいました。 とくに素晴らしかったのが、第三楽章のオーボエ・ソロ。今回のヤンソンス/バイエルン放響の演奏での収穫は、何よりPの美しさ。もちろんfのときの響きの壮大さはいうまでもないのですが、非常に緊張感に溢れた彼らの演奏は、Pのときにより一層発揮され、ショスタコーヴィッチの音楽に特有の「嘆き」がこれほどまでに表現されるのか、と本当に涙が出るようでした。ああいいオーケストラというのはこういうものだなあ、と。 ヤンソンスは本当にいい指揮者なったものです。かつては技巧的に優れた部分と熱血的な部分の調和が必ずしも十分昇華されていなかったかもしれませんが、いまや深い音楽性と統率力で間違いなくオーケストラ指揮者として、脂の乗った時代を迎えているように思えます。 それにしてもこの秋は、ムーティ/ウィーン・フィル、スダーン/東響、そしてこのヤンソンス/バイエルン放響と、立て続けに素晴らしい演奏に接することができたことは、本当に喜ばしい限りです。今週末は、「日本のオーケストラによるショスタコーヴィチ演奏の中では最も強烈なもののひとつだったのでは」という批評(音楽の友)まででた、ラザレフ/日フィルによるプロコフィエフ特集。たのしみ!
どうにかこうにか博論に片をつけたので、早速とばかりにマリス・ヤンソンス指揮のバイエルン放送交響楽団の演奏会へ。ちょうど安い券を譲ってくださる方がおられたので。 会場も久々の横浜みなとみらいホール。学生でなくなってからすっかりご無沙汰。今回はかなり舞台に近いバルコニー席。高い(完全に舞台を見下ろす感じ)というのが少々になるほかは、いいかんじ。会場へのアクセスは値段が相当高くなったが、みなとみらい線のおかげで、桜木町から歩かなくてもすまなくなったことはありがたい。どうしてもあの「空間」は何度行っても気持ちが悪い。なにか人工物で埋め尽くされたような空間だからであろうか。とにかく長居をしたい空間ではない。 さてそれはさておき、前半はイェフィム・ブロンフマンのピアノで、チャイコフスキーのコンチェルト。先日アファナシエフを聴いているだけに、その対照ぶりはすさまじいものが。とにかく体全体でものすごい迫力。とはいえ、後ろから見ているとよくわかるのが、力任せでは決してなく、流れ出る音楽は乱雑にならず流麗なもの。まあでもフィナーレは相当オケとの崩壊寸前の格闘技。いや凄かったのなんのって、という感じ。彼は昨年、ゲルギエフ/ウィーン・フィルとラフマニノフをやったとか。あまり聴きたいとは・・・ 後半はショスタコーヴィチの第5番。私とヤンソンスの出会いは、1988年に彼がレニングラード・フィルと録音したショスタコーヴィチの第7番。そのロシアらしからぬ?都会的な洗練された響きが当時は評判で、その後、95年にウィーンで彼らの実演を聴く。その当時、ウィーンではすでに圧倒的な人気を誇っていました。前半のプログラムに遅れたことを隣席の男性(まったく知らない人)にたしなめられたほどで・・・。 その後、たびたびヤンソンスは来日して、日本でも評判もうなぎ上りですが、ショスタコーヴィチはいつも5番ばかり。それで聴きにいかなかったこともあったのですが、いやいやなんのなんの、名曲であり私自身ももう何度も聴き、スコアも読んだこの曲の真価を見せてくださいました。 とくに素晴らしかったのが、第三楽章のオーボエ・ソロ。今回のヤンソンス/バイエルン放響の演奏での収穫は、何よりPの美しさ。もちろんfのときの響きの壮大さはいうまでもないのですが、非常に緊張感に溢れた彼らの演奏は、Pのときにより一層発揮され、ショスタコーヴィッチの音楽に特有の「嘆き」がこれほどまでに表現されるのか、と本当に涙が出るようでした。ああいいオーケストラというのはこういうものだなあ、と。 ヤンソンスは本当にいい指揮者なったものです。かつては技巧的に優れた部分と熱血的な部分の調和が必ずしも十分昇華されていなかったかもしれませんが、いまや深い音楽性と統率力で間違いなくオーケストラ指揮者として、脂の乗った時代を迎えているように思えます。 それにしてもこの秋は、ムーティ/ウィーン・フィル、スダーン/東響、そしてこのヤンソンス/バイエルン放響と、立て続けに素晴らしい演奏に接することができたことは、本当に喜ばしい限りです。今週末は、「日本のオーケストラによるショスタコーヴィチ演奏の中では最も強烈なもののひとつだったのでは」という批評(音楽の友)まででた、ラザレフ/日フィルによるプロコフィエフ特集。たのしみ!
2005/11/07のBlog
無教会聖書講義(ヨハネ3.1~8)
今年度の自由が丘集会における聖書講義担当がこの慌しい時期に。 あまり準備にかけられる時間がないなあ、と思いつつ、今年度のテーマである《再臨》に関して、これまでの集会で考えてきたことを扱おうと思い、ヨハネ福音書を紐解けば、幸いにしてイエスとニコデモの対話がそれに相応しそうだったので、この『ヨハネによる福音書』第三章第一節~第八節を取り上げる。 《再臨》ということで考えていたことは、世界の歴史(大文字のHISTORY)と一人ひとりの人生(小文字のhistory)という問題。イエスの再臨のときはいつか、最後の審判はいつ訪れるのかということを考えたとき、もし世界の歴史として考え、自分が生きているうちに来なければ別に関係ないのでは、と思ってしまうのはふつうのことではないかと思うのです。その日を戦々恐々と待ちながら日常生活を送るのがキリスト教徒の生活かといえば、それは違うと思うのです。 では個人の一生とこの再臨のときとはどう考えればいいのだろうか、というのが今年度考えていたことなのですが、やはり結局は救いの現在性という昨年の講義テーマとほぼ同じ結論へ。 すなわち、常に再臨のときは一人ひとりのうちに訪れているというもの。そしてそれは裁きのときという戒めでもあり、聖霊の働きによって神の国(支配)を「見る」ことができるのである、というヨハネ福音書独特のメッセージ。「神の支配を見るというこのことは、もちろん、終わりの日に、すなわち黙示文学的な人の子の来臨期待のうちに、起こるのではなくて、地上のイエスの働きのうちに、またあらゆる時代の共同体(エクレシア)の告知のうちに、起こるのである。」(NTD101頁) キリスト教に自分自身が特別こだわる理由は特別ないといえばないのですが、このような一見両極的な相矛盾するような要素(戒めと救済)が、同じ重みを持って語られる点は宗教として独特なものがあるような気がします。 先日のミサソレの練習で合唱指揮の岡本先生が急遽オーケストラの練習も見ることになったとき、彼曰く余計なことを行ってしまった話というのが、ベネディクトゥスの解釈の話。ベネディクトゥスは「ほむべきかな、主の名によりて来たる者」で、つまりはイエス・キリストがいらっしゃることを讃えるもの(マタイ21.9ほか)。しかしながらイエスが地上へいらしたことは、単なる救い主の誕生を手放しで喜ぶものではなく、十字架にかかり死ぬために(それによってイエスはキリストとなる)いらしたのであるから、実はイエスがいらしたことを手放しで喜ぶ響きではなく、どこかに(死の)影があるような、そういった響きが求められる、といった内容がその主旨。おもわずああ、と。 日本では教会も誤解しているような節がなくもないような気がしますが、イエスの誕生を祝うよりも、実は四旬節・復活祭の方がキリスト教としては重要な「行事」。イエスは十字架にかかることではじめて「キリスト=救世主」となられるわけですから。
今年度の自由が丘集会における聖書講義担当がこの慌しい時期に。 あまり準備にかけられる時間がないなあ、と思いつつ、今年度のテーマである《再臨》に関して、これまでの集会で考えてきたことを扱おうと思い、ヨハネ福音書を紐解けば、幸いにしてイエスとニコデモの対話がそれに相応しそうだったので、この『ヨハネによる福音書』第三章第一節~第八節を取り上げる。 《再臨》ということで考えていたことは、世界の歴史(大文字のHISTORY)と一人ひとりの人生(小文字のhistory)という問題。イエスの再臨のときはいつか、最後の審判はいつ訪れるのかということを考えたとき、もし世界の歴史として考え、自分が生きているうちに来なければ別に関係ないのでは、と思ってしまうのはふつうのことではないかと思うのです。その日を戦々恐々と待ちながら日常生活を送るのがキリスト教徒の生活かといえば、それは違うと思うのです。 では個人の一生とこの再臨のときとはどう考えればいいのだろうか、というのが今年度考えていたことなのですが、やはり結局は救いの現在性という昨年の講義テーマとほぼ同じ結論へ。 すなわち、常に再臨のときは一人ひとりのうちに訪れているというもの。そしてそれは裁きのときという戒めでもあり、聖霊の働きによって神の国(支配)を「見る」ことができるのである、というヨハネ福音書独特のメッセージ。「神の支配を見るというこのことは、もちろん、終わりの日に、すなわち黙示文学的な人の子の来臨期待のうちに、起こるのではなくて、地上のイエスの働きのうちに、またあらゆる時代の共同体(エクレシア)の告知のうちに、起こるのである。」(NTD101頁) キリスト教に自分自身が特別こだわる理由は特別ないといえばないのですが、このような一見両極的な相矛盾するような要素(戒めと救済)が、同じ重みを持って語られる点は宗教として独特なものがあるような気がします。 先日のミサソレの練習で合唱指揮の岡本先生が急遽オーケストラの練習も見ることになったとき、彼曰く余計なことを行ってしまった話というのが、ベネディクトゥスの解釈の話。ベネディクトゥスは「ほむべきかな、主の名によりて来たる者」で、つまりはイエス・キリストがいらっしゃることを讃えるもの(マタイ21.9ほか)。しかしながらイエスが地上へいらしたことは、単なる救い主の誕生を手放しで喜ぶものではなく、十字架にかかり死ぬために(それによってイエスはキリストとなる)いらしたのであるから、実はイエスがいらしたことを手放しで喜ぶ響きではなく、どこかに(死の)影があるような、そういった響きが求められる、といった内容がその主旨。おもわずああ、と。 日本では教会も誤解しているような節がなくもないような気がしますが、イエスの誕生を祝うよりも、実は四旬節・復活祭の方がキリスト教としては重要な「行事」。イエスは十字架にかかることではじめて「キリスト=救世主」となられるわけですから。
2005/11/07のblog
アファナシエフ&スダーン/東響
ひさびさに東京交響楽団の定期公演へ。会場はサントリーではなく芸劇。今回はオケを聴きにというよりは、アファナシエフ&スダーンの《皇帝》を聴きに。席をどこにするか迷ったものの、1階最前列のど真ん中、という席をお譲りいただけたので、そちらで。指 揮: ユベール・スダーン ピアノ:ヴァレリー・アファナシエフ 曲 目: シューベルト/交響曲 第2番 変ロ長調 D.125 ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」 もちろん《皇帝》が目当てであったものの、前半のシューベルトもウィーン・フィルで4番を聴いて面白かったこともあり、楽しみに。もちろん比較は厳しいものの、スダーン/東響の演奏は、彼らが実にいい状態にあることを証明してくれるような名演。とりわけグレブ・ニキティンがトップを務めるファースト・ヴァイオリンが素晴らしく。スダーンは一楽章が終わった時点で彼らに向かっておもわず“Merci”と。この時点で、12日の彼らのブルックナー第8番の公演へ行くことを決定。すぐにチケットの購入へ。 さてお目当ての《皇帝》は、いかにも神経質そうなアファナシエフ。「とにかく遅い」ということを聴いていたものの、ただ徒にテンポを遅くするようなことは決してなく、アファナシエフの(おそらくは)美的基準に従い、一音一音を大切に表現したいところは確かに異常なテンポの遅さを採用するという印象。 そもそも「ピアノ」という楽器の名前は、ピアノからフォルテまで出せる楽器、という意味でしたが、そのことを改めて感じさせられたこともまた確か。フォルテは実に力強く、しかし決して乱暴にはならず。ピアノは実に繊細なしかしそれでいてしっかりと芯のある響き。もちろんそういったことのみならず、どの音をとっても実に繊細優美な音色。すっかり魅了されました。《皇帝》のあとにアンコールを求めるのも何ですが、何かもっと聴かせてほしかった、あっという間の時間でした。
ひさびさに東京交響楽団の定期公演へ。会場はサントリーではなく芸劇。今回はオケを聴きにというよりは、アファナシエフ&スダーンの《皇帝》を聴きに。席をどこにするか迷ったものの、1階最前列のど真ん中、という席をお譲りいただけたので、そちらで。指 揮: ユベール・スダーン ピアノ:ヴァレリー・アファナシエフ 曲 目: シューベルト/交響曲 第2番 変ロ長調 D.125 ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 作品73「皇帝」 もちろん《皇帝》が目当てであったものの、前半のシューベルトもウィーン・フィルで4番を聴いて面白かったこともあり、楽しみに。もちろん比較は厳しいものの、スダーン/東響の演奏は、彼らが実にいい状態にあることを証明してくれるような名演。とりわけグレブ・ニキティンがトップを務めるファースト・ヴァイオリンが素晴らしく。スダーンは一楽章が終わった時点で彼らに向かっておもわず“Merci”と。この時点で、12日の彼らのブルックナー第8番の公演へ行くことを決定。すぐにチケットの購入へ。 さてお目当ての《皇帝》は、いかにも神経質そうなアファナシエフ。「とにかく遅い」ということを聴いていたものの、ただ徒にテンポを遅くするようなことは決してなく、アファナシエフの(おそらくは)美的基準に従い、一音一音を大切に表現したいところは確かに異常なテンポの遅さを採用するという印象。 そもそも「ピアノ」という楽器の名前は、ピアノからフォルテまで出せる楽器、という意味でしたが、そのことを改めて感じさせられたこともまた確か。フォルテは実に力強く、しかし決して乱暴にはならず。ピアノは実に繊細なしかしそれでいてしっかりと芯のある響き。もちろんそういったことのみならず、どの音をとっても実に繊細優美な音色。すっかり魅了されました。《皇帝》のあとにアンコールを求めるのも何ですが、何かもっと聴かせてほしかった、あっという間の時間でした。
2005/10/31のBlog
《ミサ・ソレムニス》
この慌しい時期に何を好き好んで、と思いつつ、結局出演までこぎつけてしまった、 ベートーヴェン晩年の大作《ミサ・ソレムニス》。確かに下野竜也氏の指揮する日本フィルと共演できるなど、非常に機会ではありましたた。 そもそも見た目の割りに肺活量がなく、のども弱い私にとって、ミサソレを歌うことなど、よほど発声をしっかりやらないかぎり明らかに無理だと思っておりました。第九を続けて三回歌うようなもの、と出演を辞退した団員に共感をしつつも、結局、なんだかんだといいながら徐々に練習参加率も高め、曲の理解も深まってくると意外なもので、体力的には第九とそれほど変わらないかもしれない、などと思うように。指導者のお一人であられる評論家の國土潤一氏が、声楽的はよほど第九より考えられている曲であるというのは確かなことだろうと実感。 公演自体はなんとかかんとか成功にこぎつけた・・・という印象。指揮の岡本先生はベネディクトゥスが非常にうまくいった、と大変ご機嫌のご様子でしたし、お客様の反応もよかったので、まあいい演奏会でした。でもやはりもう一回やりたいというのが正直なところ。今後、パイオニア合唱団は来年3月の《復活》、そして10月にはヴェルディの《レクイエム》と大作続き。ミサソレを歌ってしまった今は結構気は大きくなっているかもしれません。あとはバッハのロ短調をどうするか。
この慌しい時期に何を好き好んで、と思いつつ、結局出演までこぎつけてしまった、 ベートーヴェン晩年の大作《ミサ・ソレムニス》。確かに下野竜也氏の指揮する日本フィルと共演できるなど、非常に機会ではありましたた。 そもそも見た目の割りに肺活量がなく、のども弱い私にとって、ミサソレを歌うことなど、よほど発声をしっかりやらないかぎり明らかに無理だと思っておりました。第九を続けて三回歌うようなもの、と出演を辞退した団員に共感をしつつも、結局、なんだかんだといいながら徐々に練習参加率も高め、曲の理解も深まってくると意外なもので、体力的には第九とそれほど変わらないかもしれない、などと思うように。指導者のお一人であられる評論家の國土潤一氏が、声楽的はよほど第九より考えられている曲であるというのは確かなことだろうと実感。 公演自体はなんとかかんとか成功にこぎつけた・・・という印象。指揮の岡本先生はベネディクトゥスが非常にうまくいった、と大変ご機嫌のご様子でしたし、お客様の反応もよかったので、まあいい演奏会でした。でもやはりもう一回やりたいというのが正直なところ。今後、パイオニア合唱団は来年3月の《復活》、そして10月にはヴェルディの《レクイエム》と大作続き。ミサソレを歌ってしまった今は結構気は大きくなっているかもしれません。あとはバッハのロ短調をどうするか。
2005/10/20のBlog
色について
高崎経済大での講義で、土屋賢二氏の『猫とロボットとモーツァルト』(哲学論集!)から、「どうして分かるのか―赤色と行先」を取り上げ、それについての感想でも、あるいは「色」に関して思ったことをエッセイにまとめなさいという課題を出してみる。 「どうして分かるのか」は、ある色を見たときに赤色であるということは簡単であるが、なぜそういえるのか、赤色であると判断したのはどのような根拠に基づいているのか、という問いをめぐるもの。このような問いは実はナンセンスで、7つ挙げられた根拠とされるものはすべて不十分。しかしながら私たちはでたらめに判断しているわけではない、といった主旨。結局は赤色の言語ゲームに参加している、ということになるだろうか。 学生の反応はやはりあっけにとられている、という印象。課題もその戸惑いを表現したものが多いが、たまに自分自身でいろいろと考えてくれたものもあり、効果はあったかも。 色といえば、自分自身は前から「青」が好きな色。より正確に言えば群青、もしくは瑠璃色のようなものが好み。これはやはり私が大好きな画家、ラウル・デュフィが次のように述べていたことから一層強まる。「青は、どの明るさでも、その個性を保つ唯一の色である。黄色は陰では黒ずみ、明るいところではあせるし、黒ずんだ赤は褐色となり、白で薄められれば、それはもはや赤ではなくて、別の色、ローズ色である。一方、青は、もっとも黒ずんだ青からもっとも明るい青までのそのさまざまなニュアンスにおいて青である。」 これを読んでああ、自分は自分自身という個を保とうとしているのだなあと認識。個人主義者であるゆえんが分かるような気がした。 ちなみに学部時代に在籍した母校が、生涯アドレスを発行してくれていて、転送用であれば無料でつかるので取得。その際、いくつかあるサーバーに和名の色がつけられており自分で選べるようになっていた。そこで選んだのが「瑠璃」。 この瑠璃、仏教の世界では大変重要な色のようで、七宝の一つに数えられ、薬師如来の住む「浄瑠璃世界」の大地は、 瑠璃であるとか。空海が守護石にしていたとも。 美術関連ではあのウルトラマリンはこの瑠璃(ラピスラズリ)から作られるとか。 というように知れば知るほど不思議な縁と力を感じるが、残念ながら私の誕生石はエメラルド。ラピスラズリは12月の誕生石なんですよね。まあ誕生石は宝石商の考えたものなのでそれほどのつながりは考えなくてもいいようですが。
高崎経済大での講義で、土屋賢二氏の『猫とロボットとモーツァルト』(哲学論集!)から、「どうして分かるのか―赤色と行先」を取り上げ、それについての感想でも、あるいは「色」に関して思ったことをエッセイにまとめなさいという課題を出してみる。 「どうして分かるのか」は、ある色を見たときに赤色であるということは簡単であるが、なぜそういえるのか、赤色であると判断したのはどのような根拠に基づいているのか、という問いをめぐるもの。このような問いは実はナンセンスで、7つ挙げられた根拠とされるものはすべて不十分。しかしながら私たちはでたらめに判断しているわけではない、といった主旨。結局は赤色の言語ゲームに参加している、ということになるだろうか。 学生の反応はやはりあっけにとられている、という印象。課題もその戸惑いを表現したものが多いが、たまに自分自身でいろいろと考えてくれたものもあり、効果はあったかも。 色といえば、自分自身は前から「青」が好きな色。より正確に言えば群青、もしくは瑠璃色のようなものが好み。これはやはり私が大好きな画家、ラウル・デュフィが次のように述べていたことから一層強まる。「青は、どの明るさでも、その個性を保つ唯一の色である。黄色は陰では黒ずみ、明るいところではあせるし、黒ずんだ赤は褐色となり、白で薄められれば、それはもはや赤ではなくて、別の色、ローズ色である。一方、青は、もっとも黒ずんだ青からもっとも明るい青までのそのさまざまなニュアンスにおいて青である。」 これを読んでああ、自分は自分自身という個を保とうとしているのだなあと認識。個人主義者であるゆえんが分かるような気がした。 ちなみに学部時代に在籍した母校が、生涯アドレスを発行してくれていて、転送用であれば無料でつかるので取得。その際、いくつかあるサーバーに和名の色がつけられており自分で選べるようになっていた。そこで選んだのが「瑠璃」。 この瑠璃、仏教の世界では大変重要な色のようで、七宝の一つに数えられ、薬師如来の住む「浄瑠璃世界」の大地は、 瑠璃であるとか。空海が守護石にしていたとも。 美術関連ではあのウルトラマリンはこの瑠璃(ラピスラズリ)から作られるとか。 というように知れば知るほど不思議な縁と力を感じるが、残念ながら私の誕生石はエメラルド。ラピスラズリは12月の誕生石なんですよね。まあ誕生石は宝石商の考えたものなのでそれほどのつながりは考えなくてもいいようですが。
2005/10/18のBlog
ウィーン・フィルのヒンデミット
ひさびさのオーケストラ・コンサート、ひさびさのサントリー・ホールは、リッカルド・ムーティ指揮によるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演。 今回はシューベルトをメインとした地味なプログラムと、来年アーノンクールと来日することなどが災いしたのか、チケットの争奪戦がそれほど激しくなく、私もお目当てのヒンデミットが演奏される土曜日の比較的安い席を確保。 意外と知られていないのが彼らの初来日。50名程度と小規模ながらも、ヒンデミットの指揮で今回と同じ「至高の幻想」を演奏している。ムーティがヒンデミットを振る、というのはやや意外な感もあったが、ヒンデミットの複雑な和声構造もしっかりと把握され、堅固な像が構築された。冒頭からして深い響きでかつ流麗な弦の合奏を聴かされてはたまらなかった。 R・シュトラウスの《死と変容》もこれもまた、力みなく、壮麗な響きに圧倒される。明らかにフライングの拍手は、会場を完全に凍りつかせたが(ムーティの恐さを知らないのか!)、アンコールの《運命の力》序曲で何とか回復。それにしてもあのときのムーティの表情は恐ろしかった。バックステージで見られたのはよかったのか…。 ちなみに今から10年前、ヒンデミットの生誕100年の年にウィーンへ行きましたが、そのときウィーン・フィルは日本へ行ってしまっていたものの(悲)、ウィーン放送響によるヒンデミットのレクイエムをムジークフェラインザールで聴くことができたことは忘れがたいものでした。そのときの前プロが《死と変容》。もちろんR・シュトラウスとヒンデミットが同じ日のプログラムに入ることは全く不思議ではないものの、縁があることを思わせるものでした。
ひさびさのオーケストラ・コンサート、ひさびさのサントリー・ホールは、リッカルド・ムーティ指揮によるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演。 今回はシューベルトをメインとした地味なプログラムと、来年アーノンクールと来日することなどが災いしたのか、チケットの争奪戦がそれほど激しくなく、私もお目当てのヒンデミットが演奏される土曜日の比較的安い席を確保。 意外と知られていないのが彼らの初来日。50名程度と小規模ながらも、ヒンデミットの指揮で今回と同じ「至高の幻想」を演奏している。ムーティがヒンデミットを振る、というのはやや意外な感もあったが、ヒンデミットの複雑な和声構造もしっかりと把握され、堅固な像が構築された。冒頭からして深い響きでかつ流麗な弦の合奏を聴かされてはたまらなかった。 R・シュトラウスの《死と変容》もこれもまた、力みなく、壮麗な響きに圧倒される。明らかにフライングの拍手は、会場を完全に凍りつかせたが(ムーティの恐さを知らないのか!)、アンコールの《運命の力》序曲で何とか回復。それにしてもあのときのムーティの表情は恐ろしかった。バックステージで見られたのはよかったのか…。 ちなみに今から10年前、ヒンデミットの生誕100年の年にウィーンへ行きましたが、そのときウィーン・フィルは日本へ行ってしまっていたものの(悲)、ウィーン放送響によるヒンデミットのレクイエムをムジークフェラインザールで聴くことができたことは忘れがたいものでした。そのときの前プロが《死と変容》。もちろんR・シュトラウスとヒンデミットが同じ日のプログラムに入ることは全く不思議ではないものの、縁があることを思わせるものでした。
2005/10/10のBlog
気がつけば
もともと日記を書く習慣はなく、文章を書こうとするときはそれなりの状況になってから、というタイプなので、ついつい更新がおろそかになってしまうことがしばしば。書きたいと思うことがあったとしても、タイミングが合わないことも多く・・・。気がつけば・・・が口癖になってしまう。 という言い訳はさておき、たまには研究以外のお話。あまり、漫画などは読まないように思われますが、『動物のお医者さん』以来、佐々木倫子は全作品所蔵。他にも結構読んでおります。『のだめカンタービレ』は信じられないような売れよう。以前から気になってはいたのを、ご丁寧にもついに全巻貸してくださる方がいらっしゃり、自分でも購入。現在、その前半部はさらに貸し出し中という状況。広まる広まる。 この作品を読んでいるときから千秋真一のメンタリティは似ているかも、と思っていましたが、キャラクターチェックなるものをやってみたところ、やっぱり「千秋」。時期をおいて再びやってみてもやっぱり千秋。ええ、どうせ「オレさま」ですよ。いかがその結果。「あなたは【千秋さま】タイプです。天性の才能に、たゆまない努力と向上心を持ち合わせているあなた。ときに悩みながらも着実に前進していこうとするあなたは、『のだめカンタービレ』のキャラでいうならば【オレさま・千秋さま】がぴったりです。生まれ持った才能に、さらなる努力を重ねていけば、確実にあなたの頭上に太陽が輝く日がくるでしょう。自己中心的な面があり、クールですが、なぜか圧倒的なカリスマ的人気を得やすい魅力の持ち主です。自分の常識で理解しがたい相手を身のまわりに置いておくことで、さらなる壁をぶち破ることができるでしょう。」 さて、それはさておきもうひとつ岡野玲子氏による『陰陽師』。私の趣味趣向を「きわめて」よく知る親友の「ぜったいにはまるから」の薦めによって読み始め、その言葉通りになった作品。これはほとんど漫画とはいいがたい世界で、とにかく岡野氏の探究心には感服させられる。と、この作品に関しては改めて。
もともと日記を書く習慣はなく、文章を書こうとするときはそれなりの状況になってから、というタイプなので、ついつい更新がおろそかになってしまうことがしばしば。書きたいと思うことがあったとしても、タイミングが合わないことも多く・・・。気がつけば・・・が口癖になってしまう。 という言い訳はさておき、たまには研究以外のお話。あまり、漫画などは読まないように思われますが、『動物のお医者さん』以来、佐々木倫子は全作品所蔵。他にも結構読んでおります。『のだめカンタービレ』は信じられないような売れよう。以前から気になってはいたのを、ご丁寧にもついに全巻貸してくださる方がいらっしゃり、自分でも購入。現在、その前半部はさらに貸し出し中という状況。広まる広まる。 この作品を読んでいるときから千秋真一のメンタリティは似ているかも、と思っていましたが、キャラクターチェックなるものをやってみたところ、やっぱり「千秋」。時期をおいて再びやってみてもやっぱり千秋。ええ、どうせ「オレさま」ですよ。いかがその結果。「あなたは【千秋さま】タイプです。天性の才能に、たゆまない努力と向上心を持ち合わせているあなた。ときに悩みながらも着実に前進していこうとするあなたは、『のだめカンタービレ』のキャラでいうならば【オレさま・千秋さま】がぴったりです。生まれ持った才能に、さらなる努力を重ねていけば、確実にあなたの頭上に太陽が輝く日がくるでしょう。自己中心的な面があり、クールですが、なぜか圧倒的なカリスマ的人気を得やすい魅力の持ち主です。自分の常識で理解しがたい相手を身のまわりに置いておくことで、さらなる壁をぶち破ることができるでしょう。」 さて、それはさておきもうひとつ岡野玲子氏による『陰陽師』。私の趣味趣向を「きわめて」よく知る親友の「ぜったいにはまるから」の薦めによって読み始め、その言葉通りになった作品。これはほとんど漫画とはいいがたい世界で、とにかく岡野氏の探究心には感服させられる。と、この作品に関しては改めて。
2005/09/26のBlog
所信表明演説その日に
ハイエクの議論の骨組だけを抽出するなら、次のように言ってもよいと思われる。自由主義体制が有効に機能しないという現実が(人々の認識と独立に)まずあって、それが(客観的に、学者達に)認識されるという説明は、たぶん事実に反している。これは敢えて言うなら逆が正しいのであって、自由主義は有効に機能しないのだという(根拠の薄弱な)認識と、そこから派生する、人間の意図的介入によって社会を計画的に組織しようとする様々な試みのために、自由な体制の下で本来達成され得たはずの社会が、徐々に実現不可能になっていくのである。 この過程が進行していくと、多かれ少なかれ全体主義的に経済運営が(タクシスの運営として)行われることになる。しかし、そのような環境の下で、(相対主義的なルールに従った)民主制によって集団的意思決定を行うことのもたらす不都合は、いよいよ誰の目にも明白になってくる。それ故、この過程が徹底的に進んだ後には、人々は一種合理的選択として、民主制を放棄し、独裁的な指導者の統一的な命令の体系に支配を委ねるしかないような情況が発生するのである。(嶋津格『自生的秩序』199~200頁)
少々長い引用になってしまったものの、現在「行政裁量」と「法の支配」に関する博士論文の一部を執筆する中で、やっぱりハイエクを論じなきゃなあと思いつつ、ついつい足を踏み入れすぎて嶋津先生の本を読んでしまい、なるほどと思ったので。 独裁体制というのはまさに一種の「合理的」選択のもとに生まれうる。それだけ実はデモクラシーを維持しようと思えば、あるいはきちんと機能させようと思えば("making democracy work")、それだけ手間も時間もかかるというもの。それは本当に(いい意味での)改革を実行に移そうと思ったら、独裁的な体制のほうが実行に移しやすい。 今朝の日経には西尾勝氏の論考が掲載。内容はやはりマニフェスト。郵政民営化の「先」の政策をきちんとしめせ、といったようなもの。行政学者であれば、もう少し政官関係に踏み込むようなコメントをしてほしいな、と。行政改革は政治家にしかできない仕事なんでしょうか? 首相の所信表明演説では「政府の規模を大胆に縮減していく」とか。ああ、確実に表面的な数減らし程度のことしかできないんだろうなあ、とついつい悲観してしまう。
ハイエクの議論の骨組だけを抽出するなら、次のように言ってもよいと思われる。自由主義体制が有効に機能しないという現実が(人々の認識と独立に)まずあって、それが(客観的に、学者達に)認識されるという説明は、たぶん事実に反している。これは敢えて言うなら逆が正しいのであって、自由主義は有効に機能しないのだという(根拠の薄弱な)認識と、そこから派生する、人間の意図的介入によって社会を計画的に組織しようとする様々な試みのために、自由な体制の下で本来達成され得たはずの社会が、徐々に実現不可能になっていくのである。 この過程が進行していくと、多かれ少なかれ全体主義的に経済運営が(タクシスの運営として)行われることになる。しかし、そのような環境の下で、(相対主義的なルールに従った)民主制によって集団的意思決定を行うことのもたらす不都合は、いよいよ誰の目にも明白になってくる。それ故、この過程が徹底的に進んだ後には、人々は一種合理的選択として、民主制を放棄し、独裁的な指導者の統一的な命令の体系に支配を委ねるしかないような情況が発生するのである。(嶋津格『自生的秩序』199~200頁)
少々長い引用になってしまったものの、現在「行政裁量」と「法の支配」に関する博士論文の一部を執筆する中で、やっぱりハイエクを論じなきゃなあと思いつつ、ついつい足を踏み入れすぎて嶋津先生の本を読んでしまい、なるほどと思ったので。 独裁体制というのはまさに一種の「合理的」選択のもとに生まれうる。それだけ実はデモクラシーを維持しようと思えば、あるいはきちんと機能させようと思えば("making democracy work")、それだけ手間も時間もかかるというもの。それは本当に(いい意味での)改革を実行に移そうと思ったら、独裁的な体制のほうが実行に移しやすい。 今朝の日経には西尾勝氏の論考が掲載。内容はやはりマニフェスト。郵政民営化の「先」の政策をきちんとしめせ、といったようなもの。行政学者であれば、もう少し政官関係に踏み込むようなコメントをしてほしいな、と。行政改革は政治家にしかできない仕事なんでしょうか? 首相の所信表明演説では「政府の規模を大胆に縮減していく」とか。ああ、確実に表面的な数減らし程度のことしかできないんだろうなあ、とついつい悲観してしまう。
2005/09/12のBlog
2005衆院選
衆院選の結果に関しては、まあここまでいくとは、というのが正直な感想でしょう。選挙自体に関して、今回注目すべき部分は、ひとつは期日前投票、もうひとつがIT選挙の問題でしょう。 期日前投票制度は補選を除いて、衆院選では今回が初めて。共同通信配信の記事によれば、前回2003年の不在者投票の期日前投票に相当する部分(洋上投票などを除いた数)が608万3235人であったのに対して、今回は896万2955人と47.34%も増加。昨年の参院選の期日前投票(717万1390人)と比べても、今回はかなりの関心の高さが見られたということがいえるであろう。 このような事態は単に関心の高さ、ということだけでなく選挙行動分析に影響を与えることは必至であろう。 もう一つが今回非常に話題になったIT選挙。今回、民主党がその中身に様々な問題を抱えつつも愚直にマニフェスト選挙を打ち出したにもかかわらず、十分な効果をあげられることができなかったのは、もちろん戦術の問題もあろうが、公職選挙法にも問題がある。現行の法律では選挙の種類によって違いはあるが通常葉書+選管に届け出た2種類以内のビラしか頒布ができない。よってマニフェストも頒布できず、こちらから取りに行く必要があるというものであった。これで政策本位の選挙にしましょう、などというのがそもそも無理があるわけで。 インターネットを使った選挙運動には誹謗中傷が多くなるといった批判もあるようだが、どちらかといえばその批判は選管が管理しにくくなる(取締りが面倒)ということ空というように思われる。一応、総務省には研究会があるのでそちらも参考に。IT時代の選挙運動に関する研究会
衆院選の結果に関しては、まあここまでいくとは、というのが正直な感想でしょう。選挙自体に関して、今回注目すべき部分は、ひとつは期日前投票、もうひとつがIT選挙の問題でしょう。 期日前投票制度は補選を除いて、衆院選では今回が初めて。共同通信配信の記事によれば、前回2003年の不在者投票の期日前投票に相当する部分(洋上投票などを除いた数)が608万3235人であったのに対して、今回は896万2955人と47.34%も増加。昨年の参院選の期日前投票(717万1390人)と比べても、今回はかなりの関心の高さが見られたということがいえるであろう。 このような事態は単に関心の高さ、ということだけでなく選挙行動分析に影響を与えることは必至であろう。 もう一つが今回非常に話題になったIT選挙。今回、民主党がその中身に様々な問題を抱えつつも愚直にマニフェスト選挙を打ち出したにもかかわらず、十分な効果をあげられることができなかったのは、もちろん戦術の問題もあろうが、公職選挙法にも問題がある。現行の法律では選挙の種類によって違いはあるが通常葉書+選管に届け出た2種類以内のビラしか頒布ができない。よってマニフェストも頒布できず、こちらから取りに行く必要があるというものであった。これで政策本位の選挙にしましょう、などというのがそもそも無理があるわけで。 インターネットを使った選挙運動には誹謗中傷が多くなるといった批判もあるようだが、どちらかといえばその批判は選管が管理しにくくなる(取締りが面倒)ということ空というように思われる。一応、総務省には研究会があるのでそちらも参考に。IT時代の選挙運動に関する研究会
2005/09/11のBlog
アシダカグモというのだそうで
昨晩、研究室を出たところの廊下で、巨大なクモに遭遇。そのあまりの大きさに一瞬ぎょっとしたものの、高崎で話題になったセアカゴケグモではなさそうだし大丈夫だろうとそのまま帰宅。今日調べてみたところ、この判断は正しかったようで、アシダカグモというものだそうで。http://mirukashihime.cool.ne.jp/asidaka0.htm ゴキブリを食するということで益虫だとか。そういえばついこの間、研究室にゴキブリがいて殺したばかりであったことを思い出す。あまりにセオリーどおり。 と、別に今日が衆議院選であることや「9.11」であることを忘れているわけではなく、ただなんとなく逆にこういったことを書いてみたかったわけで・・・
昨晩、研究室を出たところの廊下で、巨大なクモに遭遇。そのあまりの大きさに一瞬ぎょっとしたものの、高崎で話題になったセアカゴケグモではなさそうだし大丈夫だろうとそのまま帰宅。今日調べてみたところ、この判断は正しかったようで、アシダカグモというものだそうで。http://mirukashihime.cool.ne.jp/asidaka0.htm ゴキブリを食するということで益虫だとか。そういえばついこの間、研究室にゴキブリがいて殺したばかりであったことを思い出す。あまりにセオリーどおり。 と、別に今日が衆議院選であることや「9.11」であることを忘れているわけではなく、ただなんとなく逆にこういったことを書いてみたかったわけで・・・
2005/09/05のBlog
「小さな政府」とNPM
すでに投票日まで一週間をきってしまった衆院選。今回ほど政治学者泣かせな選挙もおそらくないでしょう。当日ふたを開けてみなければ結果がこれほど見えない選挙も珍しいのではないでしょうか。ちなみに私の大学院時代の師匠は、天候と投票率の関係を論じて有名ですが、今回もその要因が大きく作用するでしょう。それでも民主党の政権奪還は難しいだろう、ということ程度の予測はできそうですが。 それにしても特に日経などを読んでいると盛んに「小さな政府」の話が。いまどきこんな話題で盛り上がっているのも日本ぐらいでは。 そもそも小さな政府とNPM(New Public Management「新公共管理」ないしは「――経営」)は、発想のやや異なるもの。単純化して言えば、前者は量的削減で後者は質的改善。サッチャー政権の進めた前者は一時的に財政を良くしたものの、再び悪化したので、新たな手法として登場したのが、そもそもNPM。単純に官と民で分けて、官がやるのか民がやるのか、という発想ではない。 PFIにしてもそうだが、どうも輸入物は単純化され、ゆがめられ、その所期の目的が果たされないものに堕してしまう。これも丸山の「執拗低音」の影響だろうか。単に思考能力の欠如としか思われないというのが本音。
すでに投票日まで一週間をきってしまった衆院選。今回ほど政治学者泣かせな選挙もおそらくないでしょう。当日ふたを開けてみなければ結果がこれほど見えない選挙も珍しいのではないでしょうか。ちなみに私の大学院時代の師匠は、天候と投票率の関係を論じて有名ですが、今回もその要因が大きく作用するでしょう。それでも民主党の政権奪還は難しいだろう、ということ程度の予測はできそうですが。 それにしても特に日経などを読んでいると盛んに「小さな政府」の話が。いまどきこんな話題で盛り上がっているのも日本ぐらいでは。 そもそも小さな政府とNPM(New Public Management「新公共管理」ないしは「――経営」)は、発想のやや異なるもの。単純化して言えば、前者は量的削減で後者は質的改善。サッチャー政権の進めた前者は一時的に財政を良くしたものの、再び悪化したので、新たな手法として登場したのが、そもそもNPM。単純に官と民で分けて、官がやるのか民がやるのか、という発想ではない。 PFIにしてもそうだが、どうも輸入物は単純化され、ゆがめられ、その所期の目的が果たされないものに堕してしまう。これも丸山の「執拗低音」の影響だろうか。単に思考能力の欠如としか思われないというのが本音。
2005/08/11のBlog
『公共研究』掲載論文
予定より遅くなりましたが、本COEの紀要である『公共研究』の第2巻第1号(通算第3号)ができあがりました。
今回はようやく論説が掲載されています。「『行政国家』から考える公共性論」と題したもので、現在提出予定の博士論文の第2部(全4部)にほぼ相当する部分で、それゆえに結論としては展望を示したものにしか過ぎませんが。
概要としては、ハーバーマスの『公共性の構造転換』は積極国家の福祉国家の面は捉えて問題化としているが、その後の行政国家の側面が考察されていない、という批判から行政国家論の検討へとむかい、わが国で代表的な手島孝氏と片岡寛光氏の論を検討したうえで、行政国家がデモクラシーにどのような変容をもたらすのか、といったところでしょうか。 この後、博士論文では行政裁量や行政責任と法の支配の問題を検討した上で、異議申し立てのデモクラシー論へとつなぎ、新しい行政と公共性を検討するという展開になる予定です。
また今号の発刊により、前号に掲載されたICUのCOEとの共催によるシンポジウムの報告がPDFファイルにてオンライン公開されました。こちらもご参照下さい。
「9.11」以後の平和憲法のあり方――シンポジウム「平和憲法と公共哲学」報告http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/japan-miyazaki.pdf
予定より遅くなりましたが、本COEの紀要である『公共研究』の第2巻第1号(通算第3号)ができあがりました。
今回はようやく論説が掲載されています。「『行政国家』から考える公共性論」と題したもので、現在提出予定の博士論文の第2部(全4部)にほぼ相当する部分で、それゆえに結論としては展望を示したものにしか過ぎませんが。
概要としては、ハーバーマスの『公共性の構造転換』は積極国家の福祉国家の面は捉えて問題化としているが、その後の行政国家の側面が考察されていない、という批判から行政国家論の検討へとむかい、わが国で代表的な手島孝氏と片岡寛光氏の論を検討したうえで、行政国家がデモクラシーにどのような変容をもたらすのか、といったところでしょうか。 この後、博士論文では行政裁量や行政責任と法の支配の問題を検討した上で、異議申し立てのデモクラシー論へとつなぎ、新しい行政と公共性を検討するという展開になる予定です。
また今号の発刊により、前号に掲載されたICUのCOEとの共催によるシンポジウムの報告がPDFファイルにてオンライン公開されました。こちらもご参照下さい。
「9.11」以後の平和憲法のあり方――シンポジウム「平和憲法と公共哲学」報告http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/japan-miyazaki.pdf
2005/07/27のBlog
公務員の個人情報
もともとは共同通信配信の記事のようだが、今朝の日経新聞に掲載された「『個人情報に該当』と学歴など非公表・幹部人事で内閣府」の記事。 これによれば「内閣府は26日発表した8月2日付の政策統括官(局長級)人事で、これまで公表していた生年月日や最終学歴、本籍地、採用区分について4月に施行された個人情報保護法の個人情報に該当するとして公表しなかった」とのこと。 確かに本籍地は公開の必要性がない個人情報であろうし、本籍地は簡単に移すことのできる現在、公開の意味はほとんどないだろう。逆に言えば「保護」されるべき個人情報でもないかもしれない。 最終学歴はその点、やや微妙。たとえば日常生活において学歴などは関係はないし、それに基づく不当な扱いが生じるような可能性がある場合は、保護されるべき個人情報に該当するだろう。しかし公開しないことによって当人になんらかの不利益が生じるとは考えにくいし、むしろ公務員のキャリア・パスを公開することは、そこに何らかの偏りがないか等を国民がチェックするために必要なことであろう。 採用区分はキャリア・パスを明確にするためには欠かせないもの。実際には身分制が存在しないとされながらも、実際には第一種=キャリア、第二種=ノンキャリというインフォーマルな身分制が存在するといわれている以上、それが変わっているのか、あるいは依然として存在しているのか、このままでは隠蔽されてしまう危険性が大いにありうる。 内閣記者会が従来どおりの公開を申し入れたのは当然のことであろう。
もともとは共同通信配信の記事のようだが、今朝の日経新聞に掲載された「『個人情報に該当』と学歴など非公表・幹部人事で内閣府」の記事。 これによれば「内閣府は26日発表した8月2日付の政策統括官(局長級)人事で、これまで公表していた生年月日や最終学歴、本籍地、採用区分について4月に施行された個人情報保護法の個人情報に該当するとして公表しなかった」とのこと。 確かに本籍地は公開の必要性がない個人情報であろうし、本籍地は簡単に移すことのできる現在、公開の意味はほとんどないだろう。逆に言えば「保護」されるべき個人情報でもないかもしれない。 最終学歴はその点、やや微妙。たとえば日常生活において学歴などは関係はないし、それに基づく不当な扱いが生じるような可能性がある場合は、保護されるべき個人情報に該当するだろう。しかし公開しないことによって当人になんらかの不利益が生じるとは考えにくいし、むしろ公務員のキャリア・パスを公開することは、そこに何らかの偏りがないか等を国民がチェックするために必要なことであろう。 採用区分はキャリア・パスを明確にするためには欠かせないもの。実際には身分制が存在しないとされながらも、実際には第一種=キャリア、第二種=ノンキャリというインフォーマルな身分制が存在するといわれている以上、それが変わっているのか、あるいは依然として存在しているのか、このままでは隠蔽されてしまう危険性が大いにありうる。 内閣記者会が従来どおりの公開を申し入れたのは当然のことであろう。
2005/07/25のBlog
「掻き入れ時」「書き入れ時」
ロンドンに引き続き、エジプトでも痛ましいテロ事件が発生しました。その関連記事の中に、これからバカンスへ入り書き入れ時なのに・・・という現地の方の声が新聞記事になっていましたが、ああ「掻き入れ」ではなくて「書き入れ」なのか、と。 調べてみるとさっそく見つかりました。かなり多い間違いとのこと。NHK放送文化研究所が行っている「国語力テスト」では、この正解率が17%に留まったとのこと。「書き入れ時」とは商売が繁盛して、帳簿への書き込みが増えることから言われるようになった言葉であるとか。確かに言われてみれば、なるほどと思いつつ、「帳簿へ書き入れる」という習慣が廃れてきたことで誤答が増えても仕方ないだろうな、と思えます。 「かわいい子には旅をさせよ」「情けは人のためならず」といった慣用句の意味が変化してしまうことは、規範の問題ゆえに憂慮すべきかもしれませんが、慣習から来た慣用句が変化するのはむしろ自然な流れかと思いつつ、単に自分も分からなかったから自己正当化しているのかなとも。
ロンドンに引き続き、エジプトでも痛ましいテロ事件が発生しました。その関連記事の中に、これからバカンスへ入り書き入れ時なのに・・・という現地の方の声が新聞記事になっていましたが、ああ「掻き入れ」ではなくて「書き入れ」なのか、と。 調べてみるとさっそく見つかりました。かなり多い間違いとのこと。NHK放送文化研究所が行っている「国語力テスト」では、この正解率が17%に留まったとのこと。「書き入れ時」とは商売が繁盛して、帳簿への書き込みが増えることから言われるようになった言葉であるとか。確かに言われてみれば、なるほどと思いつつ、「帳簿へ書き入れる」という習慣が廃れてきたことで誤答が増えても仕方ないだろうな、と思えます。 「かわいい子には旅をさせよ」「情けは人のためならず」といった慣用句の意味が変化してしまうことは、規範の問題ゆえに憂慮すべきかもしれませんが、慣習から来た慣用句が変化するのはむしろ自然な流れかと思いつつ、単に自分も分からなかったから自己正当化しているのかなとも。
2005/07/20のBlog
音楽と公共性
今年度の小林ゼミ、学部ゼミは『公共哲学』シリーズを輪読していますが、昨日19日が最終回。第15巻『文化と芸能から考える公共性』の発展協議と特論が扱われた。特論で義江彰夫氏と東島誠氏による音楽の議論があったために、急遽コメントを求められ、研究室からゼミ室へと向かう途中でざっと目を通し参加。 義江論文は「音楽と公共性・公共世界の関係に関する一試論」と題し、ベートーヴェン、ヴァーグナー、マーラー・シベリウスを取り上げ、当時の社会状況、おそらくより性格には「時代精神」との関係を論じたもの。ベートーヴェンと近代市民社会の関連はたびたび論じられるところですが、それを『ヴァイオリン協奏曲』から読み解くというのはやや意外。私自身は、『第九』から同じ問題を解説。 ヴァーグナーに関しては彼が、「西欧市民社会の行き詰まりを資本主義・帝国主義が生み出す飽くなき追求としていかに深く認識し、その根本的解決がその欲望からの解放とそれに支えられた人間間の愛の絆であることを、音楽を通していかに認識していたかが明らかになる」(303頁)と述べられている点には疑問。確かにヴァーグナーの作品に共通するテーマとして「愛の絆による救済」を見ることはできるが、それは「人類愛」といった普遍性を持つものとは異なる、女性のそれも献身的な愛による救済の色彩が強い。『さまよえるオランダ人』にしても『タンホイザー』についてもそうだろう。『ニーベルングの指輪』にしても最後のブリュンヒルデの「自己犠牲」によって世界が救済されるわけで、彼女が指輪をそのまま自分のものとしようとすれば、救済はなかったはず。 マーラーにしても交響曲第五番の分析は興味深いものの、セクシュアリティとの関係で論じるだけに終わっているのは表面的。同じ『ヴェニスに死す』でも、ヴィスコンティではなく、ブリテンによる『ファウスト』的解釈を買いたい。 シベリウスに関しては東島氏の論文でも詳細に扱われていて興味深いが、彼が第七番でいわば集大成ともいうべき作品を書き上げて以降、第八番にも着手したものの破棄。その後自分の時代は終わったというような主旨のことを口にし、ほとんど作曲活動を行わなかったことには触れられていない。マーラーによって交響曲という「様式」は、それまでの全四楽章という形が崩され、シベリウスの第七番に至っては単一楽章による「交響的幻想曲Fantasiasinfonica」へと変貌を遂げてしまった。いわば、シベリウスによって交響曲という様式の死が宣告されてしまった、といったら言い過ぎだろうか。東島氏はそれを「時代に相応しい形へとエラボレイト(練成)していったもの」(323頁)として肯定的に捉えられておられるが、逆に私などは現代の規範なき時代の反映として、交響曲の死を考えてしまった。
今年度の小林ゼミ、学部ゼミは『公共哲学』シリーズを輪読していますが、昨日19日が最終回。第15巻『文化と芸能から考える公共性』の発展協議と特論が扱われた。特論で義江彰夫氏と東島誠氏による音楽の議論があったために、急遽コメントを求められ、研究室からゼミ室へと向かう途中でざっと目を通し参加。 義江論文は「音楽と公共性・公共世界の関係に関する一試論」と題し、ベートーヴェン、ヴァーグナー、マーラー・シベリウスを取り上げ、当時の社会状況、おそらくより性格には「時代精神」との関係を論じたもの。ベートーヴェンと近代市民社会の関連はたびたび論じられるところですが、それを『ヴァイオリン協奏曲』から読み解くというのはやや意外。私自身は、『第九』から同じ問題を解説。 ヴァーグナーに関しては彼が、「西欧市民社会の行き詰まりを資本主義・帝国主義が生み出す飽くなき追求としていかに深く認識し、その根本的解決がその欲望からの解放とそれに支えられた人間間の愛の絆であることを、音楽を通していかに認識していたかが明らかになる」(303頁)と述べられている点には疑問。確かにヴァーグナーの作品に共通するテーマとして「愛の絆による救済」を見ることはできるが、それは「人類愛」といった普遍性を持つものとは異なる、女性のそれも献身的な愛による救済の色彩が強い。『さまよえるオランダ人』にしても『タンホイザー』についてもそうだろう。『ニーベルングの指輪』にしても最後のブリュンヒルデの「自己犠牲」によって世界が救済されるわけで、彼女が指輪をそのまま自分のものとしようとすれば、救済はなかったはず。 マーラーにしても交響曲第五番の分析は興味深いものの、セクシュアリティとの関係で論じるだけに終わっているのは表面的。同じ『ヴェニスに死す』でも、ヴィスコンティではなく、ブリテンによる『ファウスト』的解釈を買いたい。 シベリウスに関しては東島氏の論文でも詳細に扱われていて興味深いが、彼が第七番でいわば集大成ともいうべき作品を書き上げて以降、第八番にも着手したものの破棄。その後自分の時代は終わったというような主旨のことを口にし、ほとんど作曲活動を行わなかったことには触れられていない。マーラーによって交響曲という「様式」は、それまでの全四楽章という形が崩され、シベリウスの第七番に至っては単一楽章による「交響的幻想曲Fantasiasinfonica」へと変貌を遂げてしまった。いわば、シベリウスによって交響曲という様式の死が宣告されてしまった、といったら言い過ぎだろうか。東島氏はそれを「時代に相応しい形へとエラボレイト(練成)していったもの」(323頁)として肯定的に捉えられておられるが、逆に私などは現代の規範なき時代の反映として、交響曲の死を考えてしまった。
2005/07/18のBlog
IN OUR TIME'S GREATEST PHILOSOPHER VOTE
千葉大のメールサーバーが不調のようで、送信はできるが、受信ができないという状態が今日一日続いているようで、困ったものです。 ところでBBCのサイトでタイトルにある"IN OUR TIME'S GREATEST PHILOSOPHER VOTE"というのが行われたそうで、もうすでに投票の受付は終了。結果を見ることができます。 その順位はマルクスが3割弱の得票でトップ、ついでヒューム(12.67%)、ヴィトゲンシュタイン(6.80%)と続く。マルクスはともかく、ヒュームが2位というのはやや意外。あとはプラトン、アリストテレス、カントなどなど。そして10位にポパーが。ちょっと嬉しかった。 そういえば、午前中のシンポジウムだけでしたが日大文理を会場とした、日本ポパー哲学研究会の年次総会に参加しました。午前中は会長の嶋津格氏による講演。理論の進化・進歩に関して、当初から意図を決定するのではなく(計画)、変化の中で生まれてくる新しい可能性を採用する、そのような「適用の拡大」が(科学的)発見にとって意味があるのではないか、との主旨は興味深いもの。質疑応答における立花氏(お隣でした)との論争も時間切れが残念。 学部2年のときに初めて千葉大へ行き、嶋津先生の発言のbrilliantさには圧倒されたのをよく記憶してますが、今回もまとまりのある、首尾一貫した議論ではなかったものの、さすがはと思わせるものがありました。 午後は慶應へ向かい、政治思想研究会Quo Vadisにて植木献氏による「ラインホルド・ニーバーの経験理解」。ニーバーは植木氏のご発表で、大分体系的に理解できていたはずが、ニーバーのそうではない部分を見せられ、やや混乱。神学者による政治哲学として理解するだけでは、どうやら無理があるようで。現実へのコミットメントが相当にあったことからアメリカという文化風土や時代背景から理解を進めなくては、政治思想研究にはならないのであろうな、という印象。
千葉大のメールサーバーが不調のようで、送信はできるが、受信ができないという状態が今日一日続いているようで、困ったものです。 ところでBBCのサイトでタイトルにある"IN OUR TIME'S GREATEST PHILOSOPHER VOTE"というのが行われたそうで、もうすでに投票の受付は終了。結果を見ることができます。 その順位はマルクスが3割弱の得票でトップ、ついでヒューム(12.67%)、ヴィトゲンシュタイン(6.80%)と続く。マルクスはともかく、ヒュームが2位というのはやや意外。あとはプラトン、アリストテレス、カントなどなど。そして10位にポパーが。ちょっと嬉しかった。 そういえば、午前中のシンポジウムだけでしたが日大文理を会場とした、日本ポパー哲学研究会の年次総会に参加しました。午前中は会長の嶋津格氏による講演。理論の進化・進歩に関して、当初から意図を決定するのではなく(計画)、変化の中で生まれてくる新しい可能性を採用する、そのような「適用の拡大」が(科学的)発見にとって意味があるのではないか、との主旨は興味深いもの。質疑応答における立花氏(お隣でした)との論争も時間切れが残念。 学部2年のときに初めて千葉大へ行き、嶋津先生の発言のbrilliantさには圧倒されたのをよく記憶してますが、今回もまとまりのある、首尾一貫した議論ではなかったものの、さすがはと思わせるものがありました。 午後は慶應へ向かい、政治思想研究会Quo Vadisにて植木献氏による「ラインホルド・ニーバーの経験理解」。ニーバーは植木氏のご発表で、大分体系的に理解できていたはずが、ニーバーのそうではない部分を見せられ、やや混乱。神学者による政治哲学として理解するだけでは、どうやら無理があるようで。現実へのコミットメントが相当にあったことからアメリカという文化風土や時代背景から理解を進めなくては、政治思想研究にはならないのであろうな、という印象。
2005/07/13
新日フィル定期
ちょうどCURURUへ変わってしまう直前、書こうと思っていたのが新日本フィルの定期演奏会の件。 そもそももとの新着情報は「備忘録」の役割も考えていたので、記事を残し忘れること自体意味がなくなってしまうのですが、なんとか思い出しつつ。 4月の定期は現音楽監督クリスチャン・アルミンクによる現代音楽と『運命』のプログラム。年末に新日フィルのベートーヴェンは小澤征爾と第7番を聴いていますが、このときは前半がラフマニノフのピアノ協奏曲だったため、演奏そのものはそこそこ良かったものの、いかんせんこの組み合わせでは楽しむことができず、空振りでした。それに比して今回はプログラミングもよく練られているし、アプローチも(流行とはいえ)古楽器スタイルを独自に消化した形でのもの。大いに楽しめました。確かに小澤は人は呼べるかもしれませんが、ああ別に新日フィルにはいらないな、という印象。 5月の定期はザンデルリンク指揮によるショスタコーヴィチ。ザンデルリンクとはいっても東独の巨匠ではもちろんなく、息子のシュテファン。前半のモーツァルトは退屈というほど酷くはなかったものの、眠い眠い…。ところがショスタコーヴィチの方は、緊張感に満ち溢れたなかなかのもの。第一楽章が終わったとき、そしてもちろん全曲が終わったときの静寂さは、この演奏がただならぬものであったことを物語っていました。 ただ、この第8番、特に第1楽章、第5楽章の中間部に(私は大嫌いな)tuttiの部分があり、この部分をシュテファンはやたらアチェランドをかけて、疾風怒濤のごとく処理していたのは「???」。それ以外にもやや恣意的なテンポ設定が気にならないわけでもなかった。 さてシーズン最後は再び音楽監督アルミンクによるマーラー「大地の歌」。もうこの公演は、もちろんアルミンク/新日フィルの演奏も素晴らしかったものの、何とといってもアルトの藤村実穂子の歌唱が圧巻!この曲はどちらかというとテノール独唱が楽章が面白いものと勝手に思っていましたが、全曲の半分近くを占める最終楽章の真価を知ることができました。終わりに繰り返される"ewig"はもちろんのこと、イゾルデの愛の死を彷彿させるような音楽にすっかり酔いしれてしまいました。ああやっぱりマーラーがすきなのか?
[ 更新日時:17:33 ]
ちょうどCURURUへ変わってしまう直前、書こうと思っていたのが新日本フィルの定期演奏会の件。 そもそももとの新着情報は「備忘録」の役割も考えていたので、記事を残し忘れること自体意味がなくなってしまうのですが、なんとか思い出しつつ。 4月の定期は現音楽監督クリスチャン・アルミンクによる現代音楽と『運命』のプログラム。年末に新日フィルのベートーヴェンは小澤征爾と第7番を聴いていますが、このときは前半がラフマニノフのピアノ協奏曲だったため、演奏そのものはそこそこ良かったものの、いかんせんこの組み合わせでは楽しむことができず、空振りでした。それに比して今回はプログラミングもよく練られているし、アプローチも(流行とはいえ)古楽器スタイルを独自に消化した形でのもの。大いに楽しめました。確かに小澤は人は呼べるかもしれませんが、ああ別に新日フィルにはいらないな、という印象。 5月の定期はザンデルリンク指揮によるショスタコーヴィチ。ザンデルリンクとはいっても東独の巨匠ではもちろんなく、息子のシュテファン。前半のモーツァルトは退屈というほど酷くはなかったものの、眠い眠い…。ところがショスタコーヴィチの方は、緊張感に満ち溢れたなかなかのもの。第一楽章が終わったとき、そしてもちろん全曲が終わったときの静寂さは、この演奏がただならぬものであったことを物語っていました。 ただ、この第8番、特に第1楽章、第5楽章の中間部に(私は大嫌いな)tuttiの部分があり、この部分をシュテファンはやたらアチェランドをかけて、疾風怒濤のごとく処理していたのは「???」。それ以外にもやや恣意的なテンポ設定が気にならないわけでもなかった。 さてシーズン最後は再び音楽監督アルミンクによるマーラー「大地の歌」。もうこの公演は、もちろんアルミンク/新日フィルの演奏も素晴らしかったものの、何とといってもアルトの藤村実穂子の歌唱が圧巻!この曲はどちらかというとテノール独唱が楽章が面白いものと勝手に思っていましたが、全曲の半分近くを占める最終楽章の真価を知ることができました。終わりに繰り返される"ewig"はもちろんのこと、イゾルデの愛の死を彷彿させるような音楽にすっかり酔いしれてしまいました。ああやっぱりマーラーがすきなのか?
[ 更新日時:17:33 ]
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