音楽と公共性
今年度の小林ゼミ、学部ゼミは『公共哲学』シリーズを輪読していますが、昨日19日が最終回。第15巻『文化と芸能から考える公共性』の発展協議と特論が扱われた。特論で義江彰夫氏と東島誠氏による音楽の議論があったために、急遽コメントを求められ、研究室からゼミ室へと向かう途中でざっと目を通し参加。 義江論文は「音楽と公共性・公共世界の関係に関する一試論」と題し、ベートーヴェン、ヴァーグナー、マーラー・シベリウスを取り上げ、当時の社会状況、おそらくより性格には「時代精神」との関係を論じたもの。ベートーヴェンと近代市民社会の関連はたびたび論じられるところですが、それを『ヴァイオリン協奏曲』から読み解くというのはやや意外。私自身は、『第九』から同じ問題を解説。 ヴァーグナーに関しては彼が、「西欧市民社会の行き詰まりを資本主義・帝国主義が生み出す飽くなき追求としていかに深く認識し、その根本的解決がその欲望からの解放とそれに支えられた人間間の愛の絆であることを、音楽を通していかに認識していたかが明らかになる」(303頁)と述べられている点には疑問。確かにヴァーグナーの作品に共通するテーマとして「愛の絆による救済」を見ることはできるが、それは「人類愛」といった普遍性を持つものとは異なる、女性のそれも献身的な愛による救済の色彩が強い。『さまよえるオランダ人』にしても『タンホイザー』についてもそうだろう。『ニーベルングの指輪』にしても最後のブリュンヒルデの「自己犠牲」によって世界が救済されるわけで、彼女が指輪をそのまま自分のものとしようとすれば、救済はなかったはず。 マーラーにしても交響曲第五番の分析は興味深いものの、セクシュアリティとの関係で論じるだけに終わっているのは表面的。同じ『ヴェニスに死す』でも、ヴィスコンティではなく、ブリテンによる『ファウスト』的解釈を買いたい。 シベリウスに関しては東島氏の論文でも詳細に扱われていて興味深いが、彼が第七番でいわば集大成ともいうべき作品を書き上げて以降、第八番にも着手したものの破棄。その後自分の時代は終わったというような主旨のことを口にし、ほとんど作曲活動を行わなかったことには触れられていない。マーラーによって交響曲という「様式」は、それまでの全四楽章という形が崩され、シベリウスの第七番に至っては単一楽章による「交響的幻想曲Fantasiasinfonica」へと変貌を遂げてしまった。いわば、シベリウスによって交響曲という様式の死が宣告されてしまった、といったら言い過ぎだろうか。東島氏はそれを「時代に相応しい形へとエラボレイト(練成)していったもの」(323頁)として肯定的に捉えられておられるが、逆に私などは現代の規範なき時代の反映として、交響曲の死を考えてしまった。

0 件のコメント:
コメントを投稿