聖書講義:ヨブ記
年に1回は、今井館での無教会自由が丘集会にて聖書講義を担当させていただいているのですが、今年は旧約聖書の中から新約につながるテーマを取り上げるということになっていたので、色々と迷いつつ、ヨブ記を取り上げることにしました。この経緯は、わかりやすく、きっかけは『公共哲学』シリーズの続編として今年で出版された『物語り論』で、まず第1巻で宮本久雄先生が「特論I 苦難と他者の物語地平――『ヨブ記』の生成・転法的物語論的解釈から」を論じられ、さらに第2巻には竹内裕先生による「発題VII ヨブ記の四つのアイロニー」が論じられていたことでした。確かにヨブ記は文学作品としても高い評価を与えられるものとされており、このような議論において取り上げられるのは当然といえば、当然ですが。とはいえ、特に第2巻は私自身がレポートを担当、さらに手許には浅野順一氏の岩波新書もあれば、関根正雄先生訳による岩波文庫もすでにあり。もうこれはヨブ記を取り上げるしかないのであろう、との判断から取り上げた次第で。迷わずに済んで楽といえば楽なのか・・・。とはいえ、ヨブ記全体を議論するわけには行かないので、今回は宮本先生の論文を読んだときに気になって確認してみた、第40章15節以下を関根先生の解釈に従いつつ、「神の故に神を信ずる」ということ、と題しての講義にしました。結論をいってしまえば、重要なのは、人間の側からではなく《神の側から》、すなわち《神の自由なる意志のはたらき》の結果としての救済であるということです。特に以下のような関根先生の解説に依拠してのことです。ヨブは神を求めながら自己を求め、自己中心という抜け出ることのできない絶望的状況に陥没する以外になかった。このようなヨブに対し、神が問いつめられるものとしてではなく、ヨブに問う者として出てこられたことこそヨブの百八十度の方向転換を可能にした神の恩恵であった。神の自由なる恵みは神の側から人の方向に向いて下さったということにつきる。(中略)神はヨブに問いつめられるようなあわれな不自由な神ではなく――従ってヨブの作った偶像ではなく――正にその逆に世界を創造した神、従ってヨブの創造者であり、ヨブに答えを要求する神なのである。(「ヨブ記註解」『関根正雄著作集9』322~3頁、強調は引用者)

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