2011年10月4日火曜日

10/25(水)公共哲学カフェ16「科学技術の社会的影響:技術社会は安心と道徳を強迫する」

 なんだかすっかりfacebookでの情報発信のほうにウェイトがいってしまって、こちらがおろそかになってしまっております。次回、公共哲学カフェは、先ごろ突然メールをいただき、すっかり意気投合した吉澤さんにご登場いただきます。実は公共哲学なるものにコミットメントしている若手は少なく、吉澤さんはその意味で、数少ない志を同じくする若手ということで、今回も楽しみです。


【テーマ】科学技術の社会的影響:技術社会は安心と道徳を強迫する


*原発事故に象徴されるように高度に複雑化した科学技術がリスク社会における多元的な価値の表出をもたらしているものの、日本では市民による安全への追求や不埒の糾弾、環境への配慮が過剰に見られ、ネットなどの匿名化された技術によって社会に対する攻撃性が増している。この技術社会のために安心や道徳についての個人的観念があたかも集合的なものであるかのように強迫されるとき、専門家や市民はどのように公共的な務めを果たすべきか?

【メインスピーカー】:吉澤剛(よしざわ ごう)さん(京都大学人文科学研究所 特定講師)

*吉澤さんは、本年9月まで東京大学公共政策大学院特任講師として、先進技術の社会影響評価(TA:テクノロジーアセスメント)手法の開発と社会への定着を目的とする「I2TAプロジェクト」の参加。専門家と非専門家を「媒介」する、公共的役割を担ったTAの普及に努めておられます。

I2TAプロジェクト
http://i2ta.org/

「共和制のテクノロジーアセスメント」(•アイツーたより第6号 (2011年3月30日)http://i2ta.org/files/I2TAYORI_06web_A4.pdf

【コーディネーター】:宮崎文彦(千葉大学、京都フォーラム/公共哲学共働研究所)

【日時】:10月26日(水) 18時30分~21時

【場所】:東京・田町の東京工業大学田町キャンパス内 キャンパス・ イノベ
ーションセンター リエゾンコーナー501AB

※5階まで歩ける人は階段で(エレベーターもありますが)
東京都港区芝浦3-3-6 JR線田町駅下車徒歩1分、都 営地下鉄三田線下車徒歩3分
地図→http://www.cictokyo.jp/access.html

【会費】:500円※今回分も会費はすべて被災者義援金にまわします(前回分など1万円を以下に送金しました)。http://www.ud-web.com/shinsai/

【連絡先】公共哲学カフェ事務局
03-5842-7979(tel) 03-5842-7261(fax)
http://koishikawaunit.net/(090-1208-8159 赤羽)

2011年7月21日木曜日

読売日響ヒンデミット・ブルックナー

読売日響第506回定期演奏会
2011年7月19日(火) 19:00開演 サントリーホール
指揮:下野竜也(読売日響正指揮者)
《下野プロデュース・ヒンデミット・プログラムVI》
ヒンデミット/〈さまよえるオランダ人〉への序曲 ~下手くそな宮廷楽団が朝7時に湯治場で初見をした~
(下野竜也編・弦楽合奏版、世界初演)
ヒンデミット/管弦楽のための協奏曲 作品38(日本初演)
ブルックナー/交響曲 第4番 変ホ長調 WAB.104〈ロマンティック〉(ハース版)

結構、久々かもしれないフル・オーケストラの演奏会。ヒンデミットとブルックナーで指揮者が、下野氏とあれば、もう行くしかない!というプログラム。特にヒンデミットの管弦楽のための協奏曲(オケコン)が聴けるとあって、注目していた。

しかし、最近読売日響は定期会員が多いらしくチケット入手困難な公演が多く。その割には、2階の奥の方は空席が目立った気が・・・

さて第1曲目は、もう今回、日本テレビが入っていたので、その映像をご覧いただかなければという「演出」つき。原曲を知らないと厳しいかも。お遊びではあるけど真剣に弾かねばいけない難しい曲で、まあよくやってくれました。
期待のオケコン。オケコンというと大抵はバルトークが思い出されるものかもしれないが、実は、ヒンデミットが最初とか。題名通り、各パートにソリスティックな部分が多く、15分もかからない曲ながら、充実した内容の曲。かなり技術的に高度なことが要求される曲だが、読売日響の演奏は見事。やはり下野氏のスコアリーディングの深さが、この曲の構造を明確にしているので見通しが良かったことが功を奏したかと。下手な指揮者がヒンデミットを振ると、ただただ騒がしいだけの良くわからない音楽になるもので・・・。

ちなみにこの曲はヒンデミット自身の指揮によるベルリン・フィルの演奏が残されていて、1957年のモノラル録音ながら、かなりいい状態!お勧めです。→HMVのサイト

後半はブルックナーのロマンティック。下野氏は大阪フィルで朝比奈氏のもとでかなりブッルクナーは学んでいるはず、とはいえ、当然、下野氏は下野氏なりのアプローチで。
ひとつ気になったのは、トランペットとトロンボーン・チューバの位置が通常の逆になっていたこと。バックステージで聴いていたので、その効果については十分に言及はできないが、恐らく特にチューバとホルンセクションのアンサンブルにプラスになっていた印象。また3楽章でのホルンとトランペットの掛け合いも、少し離れていることで効果的だったのではないかと。
演奏は全体的に歯切れよく、また各パートがそれぞれどのような役割を演じているかの見通しが良い、クリアな演奏。それでもトゥッティではしっかりとした響きで鳴らし、そのあたりは
朝比奈氏の演奏を思い出させるような雰囲気も。
ホルンは自分でもやっていので、難しいのはわかるものの、あと一歩・・・ちょっと残念な場面が。まあそれにしても期待通りの演奏会。そろそろヒンデミットは《世界の調和》とかやってくれないものかと。

2011年6月20日月曜日

聖書講義「イサクの献供」

 日曜日は無教会自由が丘集会での聖書講義。今年は一昨年に引き続き、創世記を読んでいますが、今年はアブラハム。私自身は有名な「イサクの献供」を担当しました。


それにしても前回は「カインとアベル」で今回が、「イサクの献供」とは。政治学としても関連の深いテーマが与えられることには何かしらの意味があるのではないかと勘ぐりつつ、それに対する応えが得られたのはありがたいことでした。

この個所、 キルケゴールがアブラハムの信仰の姿勢を大絶賛したり、カントはなぜ初めの神の言葉を疑うことをしなかったのか、などという哲学の議論もあるようですが、どうも・・・という印象。新共同訳やATDなども活用しましたが、内村による解釈がもっともすっきりとしているような感じがしました「アブラハムの信仰 希伯来書第11章の研究」(大正2年10月10日~12月10日、『聖書之研究』159-161、全集20巻)
 いわくこのような試練は「人の信仰を強めんが為め」であり、「信仰の試練である、試惑ではない」と。
またイサクの生還をキリストの復活の「表式(かた)」としての理解、イサクという「我子を我に取り戻したのではない」なぜならば「イサクは神の所属(もの)」だから。よってアブラハムは自分の子を失って「すべて信ずる者の父となった」と内村は述べている。


 また今年度は、4月に世話役の西村氏から森有正のアブラハム論をご紹介いただいた。改めて昨日聞いたところによれば、森有正氏と関根正雄先生は高校の同期で、キリスト教に対する風当たりが強い時代にあってともに信仰を深めあう同志であったとか。その後は異なる生涯を送りながらも、同じような信仰境地に至ったことは極めて興味深い。

 その森有正氏のICUでの講演集『アブラハムの生涯』を千葉大の図書館で見つけることができ、今回も参照させていただきました。氏曰く、このような「経験」は誰にでも起こるとのこと。

「このユニークな瞬間が、たとえ小さくとも私どもの生涯の経験中に起こってくることがあります。人にも自分にも説明できないようなことが、しかも必然的に、ほとんど運命的に私どもの中に起ってくる。それが、実を申しますと、私どもの経験上の私どもの生涯というものを、本当にユニークな、また私ども一人一人の、ほかの誰のものでもない生涯にしてくれる」


そしてそれでこそ、人間の尊厳や民主主義といったことを考えることができるのだ、と。何か、政治学とのつながりを論じる糸口を与えていただいたような感じがしました。

ちなみに当日は、ベンジャミン・ブリテンによる"Canticles"から、2番目のアブラハムとイサクの対話を扱ったものを聴いてもらいました。

6/17(金)公共哲学カフェ 14 『震災復興と民主主義』

 すっかりこちらのブログでの告知を失念していましたが、先週金曜日は、朝日新聞の吉田貴文氏をお招きして「公共哲学カフェ 14 『震災復興と民主主義』」を開催いたしました。おかげさまで、10数名の方にご参加いただき、議論も盛り上がりました。
わたしからは、デモクラシーと専門性の問題、選挙によるコントロールだけでなく事後的な異議申し立ての必要性、マス・メディアとインターネットなどを利用した様々なオルタナティブなメディアの可能性について、質問とコメント。専門性の問題はちょうど「コンセンサス会議」が記事で取り上げられていたこともあり、また今後の原発のあり方をめぐって重要な論点と思われたので。 マスメディアの役割という点では、吉田氏は「インデックス」との役割をお応えいただいた。

その後の議論では、朝日新聞への批判なども相次いだが、それだけ依然としてマスメディアに期待されていること、影響力の大きさの反映かとも思われた。

2011年5月1日日曜日

アメナーバル監督《アレクサンドリア》

 まさか、ヒュパティアが映画になるとは、岡野玲子氏の《陰陽師》で知ったときには想像もつかなかった。4世紀、ヘレニズムとヘブライズムの対立・融合を経て中世の暗黒時代を予感させる、アレクサンドリアの変遷をこの映画は描いている

《アレクサンドリア》公式サイト
http://alexandria.gaga.ne.jp/

もちろんヒュパティアについては、彼女の著作などはことごとく失われており、この映画の多くは創作であるが、それにしてもあまりも当時の雰囲気、一つの時代(の変遷)を見事に描いており、感嘆させられる。思わず、2回も劇場に足を運んだが、すでに首都圏で上映館も少なくなり、今日5月1日はちょうど映画の日であるにもかかわらず、恐らく20名に達するかしないかという閑散ぶりは悲しいものがあった。

表面的に見てしまうと、かつてキリスト教徒はなんと酷いことをしたのか、それによってどれほどの知的遺産が失われてしまったか、という感じに終わってしまうが、監督の意図もそこにはない。むしろ歴史の一出来事を史実に忠実に描いているのではなく、歴史に転換期における人間のありようを描いたように感じられる。その描き方がこの映画を一つのドラマとして価値の高いものとしているようにも思われた。

2回目を観て、とくに印象に残った言葉が長官になったオレステスがいった、私たちは変わったと思っていたが、という趣旨のひとこと。結局は人間はなにも変わっていない、争いは終わることがない、というニュアンスを含ませたこのひとことが、監督の実は最も伝えたかったメッセージかもしれないとも思ったほど。

政治学はプラトン、アリストテレスの時代から続く学問であるが、一方で何の進展もない学問、全ての問題は彼らの著作にあるものともいわれる。それは人間が変わらないから、とも言えるであろう。

現代に通じるもの、それは人間のあり様が変わらない以上は、常に繰り返されるものとも言えるかもしれない。

とともに、それでもなお、生き続けるものがある。こうしてヒュパティアが現代に蘇るように、ともいうことができる。その奇跡こそ、この映画の価値かもしれない。

この映画の原題は《AGORA》、すなわち「公共の広場」であるとか。

2011年4月5日火曜日

リスク・コントロール

東京はここ数日気温も上昇し、電力使用量が抑えられていることもあり、だいぶん、落ち着きある印象であり、福島第一原発の問題も、危機的状況は回避されたと断言できるような状態ではないかと思われるが、冷静な議論も増えてきたのではないかと思われる。
しかしながら、日本の原発の事故が与えた影響は、ドイツの州議会選挙での緑の党の大躍進をもたらし、原発大国といわれるフランスでも原発に対する認識が変化していると聞く。いずれにしても、日本においても今後、見直しが迫られることは確かであるが、「原発は危険か否か?」という二者択一で議論を進めたとしても、生産的なものとはならないであろう。

最近目にしたこの話題については、日経ビジネス・オンラインに掲載された「武田徹氏の反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク――ジャーナリズム、調停役として機能せず」が、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」を使った解説で、興味深いものであった。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/
  結論としては、以下のとおりである。

「推進派は反対派の主張に耳を傾け、従来の原発=絶対安全のプロパガンダを一旦取り下げてより安全で安心できる原子力利用の道がないか、もう一度検証しなおす。一方で反対派も原子力利用絶対反対の姿勢を緩め、リスクの総量を減らす選択を国や電力会社が取ることを認める。こうして両者が互いに僅かであれ相互に信頼することで開かれる選択可能幅の中でリスクの総量を最小化する選択肢を選んでいく。」

この議論を展開するに当たり武田氏が「リスク」という概念に着目している点が興味深い。危険=天才との対比でリスクを人災としていることには若干、誤解があるようにも思われるが、危険(dangeer)とリスク(risk)の違いは、日本でも大分「リスク・コントロール」という考え方が広まっているように思えるが、いまだ十分ではないように思われる。

ためしに手元の辞書を調べても、riskは「dangerと違って、危険・損害などにあう可能性」(ジーニアス)、「損失[危害、不利、破滅など]の可能性」(新英和大辞典)などとある。

原発は危険かどうか、という議論をすれば推進派と反対派の二極対立になり、双方譲らず、ジレンマ状態になるであろう。しかしながら、これをリスクととらえなおせば変わってくるはずである。
今回の地震とそれに続く津波は、確かに「未曾有」のものであり、十分な対処はできなかったであろう。その意味ではその後の対処が不十分であったとしてもやむを得ない部分もあるが、やはりもし想定外のことが起こった場合にどうすべきか、が考えられていなくてはならず、その意味で、リスク・コントロールは不十分であったと言わざるを得ない。

リスクは確実になくすことができるものではなく、どれだけ削減できるかが問題となる。『コレーク行政学』の第5章は「リスクと行政」として、神田隆之氏が執筆をしているので改めて読み直してみると、最後のコラムに緊急地震速報の話題が取り上げられており、最後に次のように述べている。

「リスクに対処するということはそういう(地震の予知は困難であるという:引用者注)不確実性を、現在ある資源(技術や財源、人材など)でどれだけ合理的に削減するかということである」(。『コレーク行政学』117~118頁)

原発は危険かどうか、で議論するのではなく、今回のような事態が起こる可能性というリスクを持っているという前提で、公共的な議論が展開されることが求められるものと考えている。

2011年3月21日月曜日

10日が過ぎ

 あの大震災から10日が過ぎ、まだまだ様々な問題を抱えてではありますが、ようやく少し東京も平穏さを取り戻しつつあるように思われます。被災された方々には心からお見舞い申し上げます。これほど多くの方々が災害にあわれ、また亡くなられることになろうとは、その日、思いもよらないことでした。

私自身は高田馬場駅から早稲田の図書館へ向かう途中、遅い昼食をとろうかと思っていた矢先のことでした。街中を歩いてもいても誰もが揺れを感じ、立っていられない程とまではいかずとも、どこかに無意識につかまらねばと思われたほどの地震はもちろん体験したことのないものでした。しかも、横揺れが激しく、まるで船にでも乗っているような感覚。1週間経ってその日と同じ革靴を履いて街中を歩いた時、その感覚が呼び戻されたことに驚いたものです。

このような事態とはいえ、自分には自分自身のやらねければならない仕事があると思いながら、日々を過ごしつつ、いろいろなことを考えてきましたが、ひとつ感じたことは「リアリティ」ということに関して。

その当日、私自身はそのまま図書館に向かい、本の散乱する館内を見て改めてその大きさを実感したわけですが、館内は至って平穏。もちろん職員が対応に追われ、相談をしているのは目にしたものの、館内のそれほど多くはない学生たちはいつものように机に向かい、私自身もPCを開いて、自らの仕事に取りかかっていました。17時で閉館やむなしとなったときには、不平も聞かれたほど。

その後もテレビでは震災の様子が映し出され、また一方で福島第一原子力発電所の事故の模様がたびたび取り上げられ、この大地震とその後の大津波がいかに凄まじいものであったのか、まさにリアリティを私たちは得ることになったわけです。

しかしまた、大学で淡々と仕事をこなし、インターネットも使えなくなれば、あまり普段と変わらない風景を目にしたりもするわけです。あくまで震災が媒体を通してのリアリティでしかないのかもしれないし、それはかなり誇張された拡大されたリアリティであるかもしれないこと、考えてみれば当然ながら、改めてそのことを感じざるを得なくなりました。もちろん、被災された方のことを想い、自身にできる限りのことをやりたいと思うとともに、自身には自身のやるべき現実が重要であるということ。

今回の震災がこれほどまで連日、どのテレビ局でも取り上げられ、続けられたことには、東京の放射能汚染、あるいは余震の危険性や停電など、震災に対するリアリティがより強固であったのかと思わざるを得ません。神戸や中越の時にはこれほどのリアリティはなかったのでは。防災関連の買い占めも、これほどに起こったことはまさにオイルショック以来なのでしょう。

世界各国の反応も様々に伝えられていますが、インターネットもあり、情報伝達のスピードが格段に増し、近くなった現代。リアリティのあり方はやはり変わってきていると感ずるとともに、世界がそれによってどう変わるのか、中東での民主化デモの拡がりなどと共に、そのような問題がいまの私の頭の一角を占めています。

2011年2月20日日曜日

ハイドン:十字架上のキリストの最後の七つの言葉

 ハイドン、オラトリエンコールで検索すると、バスのソリストを務められた原田圭さんのブログとこのブログが検索にひっかかるということを複数の方から指摘され…。きちんと書いておかねばいけません。

今回の東京オラトリエンコールの演奏会で取り上げられた、表題の曲、ハイドンの《十字架上のキリストの最後の七つの言葉Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am kreuze》は、特にその演奏形式において特別なものでした。もともと管弦楽のみで書かれ、その後、弦楽四重奏版とピアノ版
(正確にはピアノだと語弊があるが)、さらには合唱とソリストを加えてのオラトリオ版と、ハイドン自身が様々なヴァージョンに携わった、音楽史上もかなり特異な曲でしょう。
 それだけのヴァージョンがどれも残されているということは、それだけ曲のもっている力が大きいからといえるわけですが、残念ながら日本ではあまり演奏される機会はないようです。


 それで今回は、探した限りでは録音が見つからなかった、弦楽四重奏版を拡大した弦楽合奏+オルガン伴奏によるオラトリオ版。とてもエコノミーな編成ですが、第一生命ホールという空間にも、合唱団の規模的にも似つかわしいものではなかったと思います。録音でも聴くことができないゆえ、どのような響きになるのか当日までわからないという感じでしたが、結果的にはかなり良かったのではないかと思われます。


 なお、今回のヴァージョンを採用するに当たっては、ジュリアード弦楽四重奏団がソリスト4人と録音したヴァージョン(HMVのサイトへ)や、残念ながら現在は入手困難な、ザルツブルク・モーツアルテウム・カメラータ・アカデミカによる弦楽合奏版(AMAZONのサイトへ)
を参考にマエストロが決められたもので、今回の録音がまあ聴けるというものであれば、ぜひ広めてみたいところです。

 今回のプログラムノートはかなりぎりぎりにもかかわらず、校正を繰り返したためかミスが多く・・・。比較的ミスの少ないものをアップロードします。(ともにPDF)

1ページめ:こちら
2ぺーじめ:こちら

2011年2月10日木曜日

メールフォーム

 ようやく2冊の翻訳の方も私の手を離れ、約60人分の学生の論文も
採点を終え、少し時間に余裕が出てきたか?という感じです。

そんななかきちんと確かめなかったのですが、どうも大学のメール
システムが移行になるようで、本日10日(木)~13日(日)まで使えな
いようです。詳しい確認を大学にいる時に行わなかったので、どの
程度使えないのかがわからず・・・

メールが届かない場合、たいへんもうしわけございません。週明け
にどかっと届くのかもしれません。

お急ぎの場合、メールフォームを用意いたしましたので、下記を
ご利用いただければ幸いです。
https://ssl.kodama.com/securemail.aspx?id=xlty2uoa6fp14px

英語のページにアクセスしますが、日本語も使えますし、SSL対応
です。
あるいは、署名にあります、早稲田のアドレス(~@ruri.waseda.jp)
は使えますので、こちらにお送りいただいても大丈夫です。

ペティット論文

高崎経済大学の紀要に投稿した論文

「現代の行政裁量に対する民主的統制
- フィリップ・ペテイットの異議申し立てのデモクラシー論 -」



は、すでにオンラインで読めるようになっております。以下の高崎経済大学
経済学会のホームページよりご覧いただければ幸いです。ちなみにまだ
抜き刷もらってません。取りに行かなくてはいけないようで・・・

http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/53_3.html

2011年2月1日火曜日

2/15(火)「公共哲学カフェ12」山岡淳一郎さん

●「公共哲学カフェ 12」

【テーマ】:『医・食・住』と公共性

※今回は、私たち誰もに身近なテーマ『医・食・住』と「公共性」がどのような関係にあるのかということを、実際的なレベルから考えていきたいと思います。参加された方々との意見交換の時間もできるだけ取りたいと考えています。


【メインスピーカー】:山岡淳一郎(やまおか じゅんいちろう)さん (ノンフィクション作家)

1959年愛媛県松山市生まれ。出版関連会社、ライター集団を経てノンフィクション作家となる。「人と時代」を共通テーマとして、建築、医療、近現代史、経済、スポーツなど分野を超えて旺盛に執筆。ドキュメンタリー番組のコメンテーター、様々な団体やNPOなどに招かれての講演活動も展開中。 『田中角栄封じられた資源戦略』『後藤新平日本の羅針盤となった男』『あなたのマンションが廃墟になる日』(ともに草思社),『命に値段がつく日 所得格差医療』(中公新書ラクレ・共著)、),『地球にやさしい家に住もう』(朝日新聞出版),『ボクサー回流』(文藝春秋),『医療のこと、もっと知ってほしい』(岩波ジュニア新書)など著書多数。最新刊に『亀井静香 支持率0パーセン トの突破力』(草思社)がある。

【コーディネーター】:赤羽高樹さん(小石川ユニット)

【日時】:2月15日(火) 18時30分~21時

【場所】:東京・田町の東京工業大学田町キャンパス内 
キャンパス・イノベーションセンター リエゾンコーナー509AB
※5階までエレベーターでお上がりください。東京都港区芝浦3-3-6
JR線田町駅下車徒歩1分、都営地下鉄三田線下車徒歩3分
地図→http://www.cictokyo.jp/access.html

【会費】:500円(資料代+お茶・お菓子代含む)

【連絡先】公共哲学カフェ事務局 03-5842-7979(tel) 03-5842-7261(fax)
http://koishikawaunit.net/(090-1208-8159 赤羽)

2011年1月1日土曜日

2011年新年のご挨拶

謹んで新年のご挨拶を申し上げます。昨年は本当にいろいろな方と交流を深めることができ、充実した一年であったと思います。今年もよろしくお願いいたします。

画像では見えにくいと思いますが、昨年のお仕事としては、

1.「行政・コミュニティ・公共性──支援・媒介的行政による協働と自治の実現」広井良典+小林正弥編著『コミュニティ』(双書「持続可能な福祉社会へ:公共性の視座から」(勁草書房
2.「新しい公共」における行政の役割 『Re』No.168、建築保全協会)
3.「吉野作造―民主主義の『理念』と『現実』」南原繁研究会『南原繁 ナショナリズムとデモクラシー』EDITEX2010年)
の3点を。
 また、まもなく
「現代の行政裁量に対する民主的統制――フィリップ・ペティットの異議申し立てのデモクラシー論」が『高崎経済大学論集』の第53巻3号に掲載される予定です。
 そして現在鋭意最終調整中のマイケル・サンデル『民主政の不満』の下巻、そして、ジョン・グレイの翻訳も春までに刊行される予定です(おかげで正月休みも何もありません…)。


 音楽面では、昨年はモーツァルトの《リタニア》(KV243)という隠れた名曲と《レクイエム》(レヴィン版)を歌い、ともに充実した演奏会でした。
 今年は、まず東京オラトリエンコールにて、ハイドンの《十字架上のキリストの最後の名七つの言葉》を1月30日に第一生命ホールにて。ご案内はこちらに。こちらも現在、解説を準備中です。それにしてもハイドンは意外と解説書が少なく…。


 歩みは遅いながらもひとつひとつ積み重ねております。博士論文も今年こそは仕上げられるつもりでおります。改めまして今年もよろしくお願いいたします。