しかしながら、日本の原発の事故が与えた影響は、ドイツの州議会選挙での緑の党の大躍進をもたらし、原発大国といわれるフランスでも原発に対する認識が変化していると聞く。いずれにしても、日本においても今後、見直しが迫られることは確かであるが、「原発は危険か否か?」という二者択一で議論を進めたとしても、生産的なものとはならないであろう。
最近目にしたこの話題については、日経ビジネス・オンラインに掲載された「武田徹氏の反原発と推進派、二項対立が生んだ巨大リスク――ジャーナリズム、調停役として機能せず」が、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」を使った解説で、興味深いものであった。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110328/219175/
結論としては、以下のとおりである。
「推進派は反対派の主張に耳を傾け、従来の原発=絶対安全のプロパガンダを一旦取り下げてより安全で安心できる原子力利用の道がないか、もう一度検証しなおす。一方で反対派も原子力利用絶対反対の姿勢を緩め、リスクの総量を減らす選択を国や電力会社が取ることを認める。こうして両者が互いに僅かであれ相互に信頼することで開かれる選択可能幅の中でリスクの総量を最小化する選択肢を選んでいく。」
この議論を展開するに当たり武田氏が「リスク」という概念に着目している点が興味深い。危険=天才との対比でリスクを人災としていることには若干、誤解があるようにも思われるが、危険(dangeer)とリスク(risk)の違いは、日本でも大分「リスク・コントロール」という考え方が広まっているように思えるが、いまだ十分ではないように思われる。
ためしに手元の辞書を調べても、riskは「dangerと違って、危険・損害などにあう可能性」(ジーニアス)、「損失[危害、不利、破滅など]の可能性」(新英和大辞典)などとある。
原発は危険かどうか、という議論をすれば推進派と反対派の二極対立になり、双方譲らず、ジレンマ状態になるであろう。しかしながら、これをリスクととらえなおせば変わってくるはずである。
今回の地震とそれに続く津波は、確かに「未曾有」のものであり、十分な対処はできなかったであろう。その意味ではその後の対処が不十分であったとしてもやむを得ない部分もあるが、やはりもし想定外のことが起こった場合にどうすべきか、が考えられていなくてはならず、その意味で、リスク・コントロールは不十分であったと言わざるを得ない。
リスクは確実になくすことができるものではなく、どれだけ削減できるかが問題となる。『コレーク行政学』
「リスクに対処するということはそういう(地震の予知は困難であるという:引用者注)不確実性を、現在ある資源(技術や財源、人材など)でどれだけ合理的に削減するかということである」(。『コレーク行政学』
原発は危険かどうか、で議論するのではなく、今回のような事態が起こる可能性というリスクを持っているという前提で、公共的な議論が展開されることが求められるものと考えている。

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