韓国では5000ウォンに描かれ、李退渓とともに代表的な儒学者として知られる李栗谷(イ・ユルゴク)ゆかりの地を訪れる京都フォーラムの旅から帰国したその日、成田空港から東大へ直行した表題の特別講義。まずは安田講堂を埋め尽くした参加者の数に圧倒された。内容等に関しては、右に出ている公共哲学ネットワークのサイトをご覧いただければ幸いである。これほど、新聞各社がこぞってとりあげたというのも驚きであった。
もちろん今回の試みは大成功であったであろうし、参加者の満足も高かったであろうと思うが、やはり気になる点はこれがエンターテインメントに止まらないものにどうしていくか、という点であろう。
発言が多かったという点に関して言えば、もちろん当日集まった参加者はもともとこの講義スタイルを知り十分に予習をしてきた人々。手が上がらなければおかしいというべきであろう。また、最近の学生一般に関していえば、発言をしても大丈夫な環境づくりの工夫をすれば、結構積極的に発言をするものと私自身は経験上思っている。彼(女)らにとって、自分の発言が否定される(正解ではないとされる)、そしてそれを嘲笑されることが怖いのであって、発言が恥ずかしいことではないとわかれば、さして彼(女)らの発言を促すことは難しいことではない。
むしろ問題は、こういった対話型、ソクラテス的手法は時間がかかるという点である。最後の鼎談でもサンデル自身が言及していたように、繰り返し時間をかけて身につけさせていくもので、1回や2回でどうこうなるものではない。
今回も、特に戦争責任問題に関する発言は活発ではあったが、必ずしも充実したものとはいえず、道徳的責任についての議論を促すサンデルに対して、政治的責任とも道徳的責任とも区別がない感情論も少なからずあり、また他人の発言をきちんと聞いて反応しているであろうか、と思われる場面も多かった。
議論が活発に行われること自体はいいことであろうが、それをどうやって深めていくか、それは残念ながら大人数での講義では難しい。おそらくは不可能であろう。大学教育におけるそういった地道な小規模での取り組みにも目が向いてもらえれば、ありがたいと思うのは私だけではないと思っている。
それにしてもいかにも東大が企画してやりました、というような雰囲気があったことにはなんだかなという印象。
2010年8月30日月曜日
2010年8月10日火曜日
公共哲学カフェ好評のうちに終了
蒸し暑い8日の日曜日の午後、わざわざ20名もの方々が、田町での公共哲学カフェに参加くださいました。大変ありがたいことです。内容は私が考えていた以上に多様な議論が盛り上がり、参加者の方々も大変ご満足いただけたようで何よりでした。
また9月にでも平日夜に開催したいので、あまり中身の詳細には触れませんが、今回は、私自身が考えていた「公共哲学カフェ」にふさわしいものにしようと思い、できる限りメインスピーカーのプレゼンと、それに対する質疑応答というスタイルを崩すことを目指しました。
というのも、高崎での授業実践とかかわっています。高崎では「論文の読み方・書き方」なる講義を担当してすでに7年目になりますが、そこでの実践がまさに教員からの一方的な講義ではなく、学生自身に作業や議論をさせ、それをサポートするものです。
「論文の読み方・書き方」という講義ではありますが、その方法を教えてくれるテキストならばいくらでもがある、とのことから、小手先のテクニックではなく、どのような内容の論文を書くか、どう論理を展開していくのか、を学んでもらうため、「自分の頭で考える」をテーマに講義をしています。
そのなかでディベートを実施したりもしているのですが、やってきて気づいたのは、学生はただ教員の話を聞いているよりも、なにかしらの作業なり議論をしたほうが充実感ということ。
もちろん、工夫やサポートが必要ですが、年々、学生自身に何かしら議論をさせる時間を増やしていき、私はできる限り、学生自身の学び、論文の執筆をサポートする役割に回るように
しています。
このような実践はあまり公共哲学という専門との関係を意識していなかったのですが、金泰昌氏の「公共哲学する」「公共する哲学」に影響を受けたのか、こういった実践も公共哲学に欠かせない側面ではないか、むしろ、こうした実践を通して、一人一人が考える主体となることは、まさに「活私開公」にかなうものではないかと考えるようになりました。
そこで公共哲学を読む会も、こうした公共哲学の実践の場としての可能性を開けないかと思い、カフェの名称を提案しました。当日は、もちろん私のほうから公共哲学の基本的なポイントを3点にまとめてお話しするなどもしましたが、参加された方々同士の議論もかなりの時間を割いてやりました。
最初でしたので、いろいろとマネージメントも試行錯誤でしたが、今後はたとえばもう少しテーマを絞ってやるなり、進め方を工夫できればと思います。
もちろんやり方は複数あるべきで、これまでのメインスピーカーをお呼びして、プレゼンと質疑応答のスタイルも継続していければと思っています。
また9月にでも平日夜に開催したいので、あまり中身の詳細には触れませんが、今回は、私自身が考えていた「公共哲学カフェ」にふさわしいものにしようと思い、できる限りメインスピーカーのプレゼンと、それに対する質疑応答というスタイルを崩すことを目指しました。
というのも、高崎での授業実践とかかわっています。高崎では「論文の読み方・書き方」なる講義を担当してすでに7年目になりますが、そこでの実践がまさに教員からの一方的な講義ではなく、学生自身に作業や議論をさせ、それをサポートするものです。
「論文の読み方・書き方」という講義ではありますが、その方法を教えてくれるテキストならばいくらでもがある、とのことから、小手先のテクニックではなく、どのような内容の論文を書くか、どう論理を展開していくのか、を学んでもらうため、「自分の頭で考える」をテーマに講義をしています。
そのなかでディベートを実施したりもしているのですが、やってきて気づいたのは、学生はただ教員の話を聞いているよりも、なにかしらの作業なり議論をしたほうが充実感ということ。
もちろん、工夫やサポートが必要ですが、年々、学生自身に何かしら議論をさせる時間を増やしていき、私はできる限り、学生自身の学び、論文の執筆をサポートする役割に回るように
しています。
このような実践はあまり公共哲学という専門との関係を意識していなかったのですが、金泰昌氏の「公共哲学する」「公共する哲学」に影響を受けたのか、こういった実践も公共哲学に欠かせない側面ではないか、むしろ、こうした実践を通して、一人一人が考える主体となることは、まさに「活私開公」にかなうものではないかと考えるようになりました。
そこで公共哲学を読む会も、こうした公共哲学の実践の場としての可能性を開けないかと思い、カフェの名称を提案しました。当日は、もちろん私のほうから公共哲学の基本的なポイントを3点にまとめてお話しするなどもしましたが、参加された方々同士の議論もかなりの時間を割いてやりました。
最初でしたので、いろいろとマネージメントも試行錯誤でしたが、今後はたとえばもう少しテーマを絞ってやるなり、進め方を工夫できればと思います。
もちろんやり方は複数あるべきで、これまでのメインスピーカーをお呼びして、プレゼンと質疑応答のスタイルも継続していければと思っています。
2010年8月1日日曜日
有元利夫展-東京都庭園美術館
すでに友の会会員になって久しい東京都庭園美術館。東工大にいたころは、
それこそたびたび研究室から自転車でふらっと行っていたところ。いまでは、
すっかり足を運ぶ回数が減ってしまったが、相変わらずここの企画はいつも
期待以上のものを感じさせてくれる。
今回の没後25周年の「有元利夫展 天空の音楽」もまったくもって期待以
上のもので、感嘆させられた。
以前から有元利夫の絵は知っていたはずだが、まとめてきちんと観るのは
今回が初めて。たんなる音楽とのつながり以上に、有元利夫の作品にはどれ
もすっかり心酔してしまった。より正確に言うならば、ここのどの作品とい
うよりも、彼の作品とその作品の飾られた空間に、というべきであろう。
またも、このひとつの美術作品である美術館の空間との「調和」にしてやら
れたとの想いが強い、舟越桂以来だろうか。
有元の作品にはそれほど私自身は音楽を強くは感じなった。むしろ、そこ
に感じられる、悠久の歴史と空間に魅了されたと言ったほうがいいような
気がする。
それは、とくにともすればシュールレアリスムの作品のようにしか見え
ない彼の作品を特徴づける、以下の彼自身のことばから気付かされたもの
である。ひさびさに迷わず購入をしたカタログから引用をしたい。
僕が舞台を描くのは
そこが演技する空間だから、
嘘をつく空間だからと
言ってもいいかもしれません。
いっぱい嘘をついて
いっぱい演技をして
様式を抽出すれば
より真実に近づき
本当のリアリティーが
出せると思うのです。
この言葉を1階の大広間で読み、なるほどだから彼の作品には
「枠」のように幕が描かれることが多いのか、と気づかされた。
ひとつの描かれた虚構であるからこそ感じられる、時間と空間。
それは実にリアリティをもって、私たちに問いかけてくる。ある
いは訴えかけてくる、いやむしろ話しかけてくるぐらいのほうが
適切かもしれない。
これほど作品との「対話」が豊かにできたことも久々で、充実
した2時間であった。今度は有田正広氏によるミニコンサートも
あるとか。実に楽しみ♪
それこそたびたび研究室から自転車でふらっと行っていたところ。いまでは、
すっかり足を運ぶ回数が減ってしまったが、相変わらずここの企画はいつも
期待以上のものを感じさせてくれる。
今回の没後25周年の「有元利夫展 天空の音楽」もまったくもって期待以
上のもので、感嘆させられた。
以前から有元利夫の絵は知っていたはずだが、まとめてきちんと観るのは
今回が初めて。たんなる音楽とのつながり以上に、有元利夫の作品にはどれ
もすっかり心酔してしまった。より正確に言うならば、ここのどの作品とい
うよりも、彼の作品とその作品の飾られた空間に、というべきであろう。
またも、このひとつの美術作品である美術館の空間との「調和」にしてやら
れたとの想いが強い、舟越桂以来だろうか。
有元の作品にはそれほど私自身は音楽を強くは感じなった。むしろ、そこ
に感じられる、悠久の歴史と空間に魅了されたと言ったほうがいいような
気がする。
それは、とくにともすればシュールレアリスムの作品のようにしか見え
ない彼の作品を特徴づける、以下の彼自身のことばから気付かされたもの
である。ひさびさに迷わず購入をしたカタログから引用をしたい。
僕が舞台を描くのは
そこが演技する空間だから、
嘘をつく空間だからと
言ってもいいかもしれません。
いっぱい嘘をついて
いっぱい演技をして
様式を抽出すれば
より真実に近づき
本当のリアリティーが
出せると思うのです。
この言葉を1階の大広間で読み、なるほどだから彼の作品には
「枠」のように幕が描かれることが多いのか、と気づかされた。
ひとつの描かれた虚構であるからこそ感じられる、時間と空間。
それは実にリアリティをもって、私たちに問いかけてくる。ある
いは訴えかけてくる、いやむしろ話しかけてくるぐらいのほうが
適切かもしれない。
これほど作品との「対話」が豊かにできたことも久々で、充実
した2時間であった。今度は有田正広氏によるミニコンサートも
あるとか。実に楽しみ♪
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