2009年8月15日土曜日

2005/09/26のBlog

所信表明演説その日に

 ハイエクの議論の骨組だけを抽出するなら、次のように言ってもよいと思われる。自由主義体制が有効に機能しないという現実が(人々の認識と独立に)まずあって、それが(客観的に、学者達に)認識されるという説明は、たぶん事実に反している。これは敢えて言うなら逆が正しいのであって、自由主義は有効に機能しないのだという(根拠の薄弱な)認識と、そこから派生する、人間の意図的介入によって社会を計画的に組織しようとする様々な試みのために、自由な体制の下で本来達成され得たはずの社会が、徐々に実現不可能になっていくのである。 この過程が進行していくと、多かれ少なかれ全体主義的に経済運営が(タクシスの運営として)行われることになる。しかし、そのような環境の下で、(相対主義的なルールに従った)民主制によって集団的意思決定を行うことのもたらす不都合は、いよいよ誰の目にも明白になってくる。それ故、この過程が徹底的に進んだ後には、人々は一種合理的選択として、民主制を放棄し、独裁的な指導者の統一的な命令の体系に支配を委ねるしかないような情況が発生するのである。(嶋津格『自生的秩序』199~200頁) 

少々長い引用になってしまったものの、現在「行政裁量」と「法の支配」に関する博士論文の一部を執筆する中で、やっぱりハイエクを論じなきゃなあと思いつつ、ついつい足を踏み入れすぎて嶋津先生の本を読んでしまい、なるほどと思ったので。 独裁体制というのはまさに一種の「合理的」選択のもとに生まれうる。それだけ実はデモクラシーを維持しようと思えば、あるいはきちんと機能させようと思えば("making democracy work")、それだけ手間も時間もかかるというもの。それは本当に(いい意味での)改革を実行に移そうと思ったら、独裁的な体制のほうが実行に移しやすい。 今朝の日経には西尾勝氏の論考が掲載。内容はやはりマニフェスト。郵政民営化の「先」の政策をきちんとしめせ、といったようなもの。行政学者であれば、もう少し政官関係に踏み込むようなコメントをしてほしいな、と。行政改革は政治家にしかできない仕事なんでしょうか? 首相の所信表明演説では「政府の規模を大胆に縮減していく」とか。ああ、確実に表面的な数減らし程度のことしかできないんだろうなあ、とついつい悲観してしまう。

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