聖書講義「地にものを書くイエス」
次々と仕事をこなしていかなくてはいけないなか、なかなか書きたいと思っても書けずにいる日々が続いています。 そのようななかでの今年の聖書講義。実は無教会研修所のサイトに、自由が丘集会の案内が出るようになったようです。こちら。 今年の基調テーマは「聖書とユーモア」。なかなかに難しく、かつ実のところ核心をついたテーマで散々何を取り上げるのか迷ったのですが、私自身が集中的に取り組んでいるヨハネ福音書から、前から気になっていた「地にものを書くイエス」(ヨハネ7章53節~8章11節)を取り上げました。姦淫の女をどう裁くか、というお話。実はこの箇所は本来のヨハネ福音書の記事ではないようですが。 この箇所を取り上げたのは、「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」という8章6節のイエスの姿が、何とも気になっていたので。何を書いていたのか、なんでこんな態度をとったのか、どこかユーモラスな印象もあったので、取り上げました。 ところがそんないい加減な?ところから取り組んだ箇所ではあるものの、実はとんでもない箇所であることがすぐにわかりました。なぜなら内村がこの箇所を 「これはどう見ても一幅の画である」と評し、「全福音の縮写」とまで言っているようなところだったのです(内村鑑三聖書注解全集第十巻、「聖善の勝利」163頁)。 この内村の大絶賛振りにいささか戸惑いと恐れをいだきつつ、(『説教者のための聖書講解』(日本基督教団出版局編、1991年)収録の佐々木敏郎氏によるものを参考に話をすすめ、「すぐに消えさる地面」に、イエスは罪状を書きつづけておられたことが、その後の十字架の贖罪を予感させるものとして、主なる神の赦しでまとめました。 一方で、そのような「赦し」は神からの側のものであって、それは私たち人間の側でなすことができるものではないとの問題提起も。一般的にキリスト教徒は寛容で、人を赦すものというイメージがあるかとも思いますが、その実、人間は罪を背負っており、常に神にそむくような存在ですから、この箇所ではイエスをはめようとするユダヤ人やパリサイ人、あるいは姦淫の罪を犯した女であるわけです。 その意味で常に神にそむく罪を犯し、神からの赦しを必要とする、そのような矛盾した側面を持つ存在が人間であるというようなお話も。人間の世界である「地の国」は、天上の「神の国」に連なるものでありながらも、全く別物であるわけです。その意味で、悪や罪の問題を直視すること、キリスト教思想にはそういった面もあることは、いくら強調してもしすぎるものではないのではないかと考えています。 講義はおまけとして?星新一の「悪への挑戦」(『白い服の男』新潮文庫所収)も紹介。裏テキストとして。 今月末は日本平和学会の分科会にて南原の平和論の発表。今回のこの聖書講義も活かしたものにしたいと考えています。

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