2009年8月15日土曜日

2005/11/07のBlog

無教会聖書講義(ヨハネ3.1~8)

今年度の自由が丘集会における聖書講義担当がこの慌しい時期に。 あまり準備にかけられる時間がないなあ、と思いつつ、今年度のテーマである《再臨》に関して、これまでの集会で考えてきたことを扱おうと思い、ヨハネ福音書を紐解けば、幸いにしてイエスとニコデモの対話がそれに相応しそうだったので、この『ヨハネによる福音書』第三章第一節~第八節を取り上げる。 《再臨》ということで考えていたことは、世界の歴史(大文字のHISTORY)と一人ひとりの人生(小文字のhistory)という問題。イエスの再臨のときはいつか、最後の審判はいつ訪れるのかということを考えたとき、もし世界の歴史として考え、自分が生きているうちに来なければ別に関係ないのでは、と思ってしまうのはふつうのことではないかと思うのです。その日を戦々恐々と待ちながら日常生活を送るのがキリスト教徒の生活かといえば、それは違うと思うのです。 では個人の一生とこの再臨のときとはどう考えればいいのだろうか、というのが今年度考えていたことなのですが、やはり結局は救いの現在性という昨年の講義テーマとほぼ同じ結論へ。 すなわち、常に再臨のときは一人ひとりのうちに訪れているというもの。そしてそれは裁きのときという戒めでもあり、聖霊の働きによって神の国(支配)を「見る」ことができるのである、というヨハネ福音書独特のメッセージ。「神の支配を見るというこのことは、もちろん、終わりの日に、すなわち黙示文学的な人の子の来臨期待のうちに、起こるのではなくて、地上のイエスの働きのうちに、またあらゆる時代の共同体(エクレシア)の告知のうちに、起こるのである。」(NTD101頁) キリスト教に自分自身が特別こだわる理由は特別ないといえばないのですが、このような一見両極的な相矛盾するような要素(戒めと救済)が、同じ重みを持って語られる点は宗教として独特なものがあるような気がします。 先日のミサソレの練習で合唱指揮の岡本先生が急遽オーケストラの練習も見ることになったとき、彼曰く余計なことを行ってしまった話というのが、ベネディクトゥスの解釈の話。ベネディクトゥスは「ほむべきかな、主の名によりて来たる者」で、つまりはイエス・キリストがいらっしゃることを讃えるもの(マタイ21.9ほか)。しかしながらイエスが地上へいらしたことは、単なる救い主の誕生を手放しで喜ぶものではなく、十字架にかかり死ぬために(それによってイエスはキリストとなる)いらしたのであるから、実はイエスがいらしたことを手放しで喜ぶ響きではなく、どこかに(死の)影があるような、そういった響きが求められる、といった内容がその主旨。おもわずああ、と。 日本では教会も誤解しているような節がなくもないような気がしますが、イエスの誕生を祝うよりも、実は四旬節・復活祭の方がキリスト教としては重要な「行事」。イエスは十字架にかかることではじめて「キリスト=救世主」となられるわけですから。

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