8月15日――その日に
今日、8月15日は終戦記念日であると同時に、政治学者丸山眞男の命日でもある。今更ながら今日の東京新聞の社説で赤木智弘氏の「『丸山真男』をひっぱたきたい」(『論座』2007年1月号掲載)を知る。幸い、赤木氏のサイトで、本論は読むことができる。 勿論当初は、なんらかの丸山論を期待して読み、それが所詮は「一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、『丸山眞男』の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光」という、私憤に過ぎないもので、どうしてこの程度のものが掲載されるのかという点に大きな疑義を抱いた。 しかしながら、同誌4月号に佐高信、奥原紀晴、若松孝二、福島みずほ、森達也、鎌田慧、斎藤貴男という面々が応答し、さらに同誌6月に掲載された、赤木氏からの反論「けっきょく、『自己責任』ですか」を読み、赤木氏の問題提起の重要性を認識するようになった。 結局赤木氏の問題提起として重視されるべきは、現在の「格差社会」の議論から抜け落ちてしまっている「安定労働層と貧困労働層間の経済格差」という問題。その問題に対して左派は感受性が欠如しており、そのことが貧困労働層をして「不安定なまま活動を強制されるよりも、むしろ右派の論理で、人間の評価軸を『経済』から、日本人や性別などの固有性を重視する『道徳』に移し、社会的基盤を安定させるほうが手っ取り早い」とい考えに至らせてしまう(「けっきょく、『自己責任』ですか」より)。そのような形でしか、「人間(として)の尊厳」をもちえなくなってしまっている。 赤木氏と私自身は同年齢ではないようだが、明らかに同世代。あと2歳でも私が年上であれば、感覚は異なっていたかもしれない。私自身は就職活動を殆どしなかったものの、周囲の様子から明らかに変化を感じ取っていた者としては、赤木氏の論考には共感を覚える部分が多い。もちろんそのような感覚的なもののみならず、彼自身が自らに課した宿題(「必要悪」としての戦争、「流動性を必須のものとして人類全体で支えていくような社会づくり」)は、公共哲学を考える人間としても真剣に取り組まなければならない課題であろうと、深く感じ入った次第である。

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