2010年6月28日月曜日

無教会聖書講義―マタイ第6章

 京都フォーラムとの関係ができてから、毎月とはいわないまでも度々週末に関西へ(出張ではなく出勤が正確か)行くことが増えたため、今年度ははやめに聖書講義を担当しました。

 無教会自由が丘集会では昨年度から輪読形式になったのですが、今年はマタイを取り上げています。私の担当は第6章。このように自分で選ばずとも、自然とそのとき私が扱うべき問題が与えられるのは、
ありがたいものです。

 というのもこの箇所は「主の祈り」が示されているところです。6年間、カトリックの学校に通っていた身としてはとても「懐かしい」部分です。と同時に、ほとんどまったく内容いかんよりもお題目のように唱えていた日々が思い出されるわけです。もっとも文語調でしたから(われらをこころみにひきたまわざれ、とか)、意味をわかってというのも無理がありましたが。

 今回、改めてこの箇所の聖書講義を担当して読み返すことで、この祈りの言葉の意味というよりは、簡潔であることの意義を改めて学ぶことができたことは何よりの収穫といえたでしょう。

 無教会では通常、お祈りの言葉は自分で紡ぎだしていくのですが、今回はこの主の祈りを、改めて当時読んでいた(暗記していた)文語調でとなえさせていただきました。

 一方で与えられていたテーマは、その祈りの部分というよりはそのあとの「天に宝を積む」部分でしたので、講義自体は内村鑑三聖書注解とNTDを参照させていただき、神と人間との(正しい)関係という観点からまとめさせていただきました。

 というのもこの第6章で気になる表現が「報い」ということば。なにか「罪の報い」のようにネガティブなイメージ、あるいはこれこれをするから助けてなどという取引のようなイメージなのですが、これは神と人間との関係に関わっているというわけです。

 つまりこのような「応報思想」を排除した考え方、つまり報いなど求めないという姿勢はどこか進行のあり方としてよさそうな気もしますが、結局のところ、それは人間自身の自己満足、そうしている行為そのものに価値を置くことになってしまいます。
 また人にこれ見よがしに祈りをささげる姿なども、結局自己満足につながります。つまりは「すでに人間から報いを受けている=賞賛などを受ける」ので、神との関係はなくなってしまっているというわけです。

 だからこそこの第6章では「応報思想」が排除されておらず、それによって神と人間との適切な、正しい関係のあり方をイエスは説こうとしたのだということになるわけです。

 宝を積む、思い悩むそうしたことは神との関係においては意味のないこと、ただ依り頼む「全面的な信頼」の重要性ということで、聖書講義をまとめました。

0 件のコメント:

コメントを投稿