2014年5月22日木曜日

聖書講義「ローマ信徒への手紙第10章5-21節「万人の救い」

 無教会自由が丘集会にて聖書講義を担当するようになって10年以上が経ちますが、先日、ついにやってしまいました。当日になって自分が担当であったことに気づく…ということを。
当日の朝に、なんとなくそうなのではないかと思いつつ、行ってみたところがその通り。致し方ないので、中学高校時代に使っていた訳注付きのフランシスコ会の新約聖書をとりに自宅に戻り、そちらも参照しながら、講義を進めました。
 
 こちらのフランシスコ会訳との違いで大変興味深かったのは、今回の担当個所直前にある10章4節。ここが新共同訳では「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために」となっているのが、フランシスコ会訳では「キリストは律法を終わらせました。それで、信じる者は皆、正しい者とされるのです」となっている。恐らく「目標」「終わらせた」と訳されている言葉は、ギリシャ語の「Τέλος(Telos)」であろう。もちろん、このパウロの言い方は、マタイ福音書の山上の垂訓にある律法についての部分「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(5章17節、新共同訳)を踏まえてのこと。しかしながら一方で、目標、目的でもあり終わりでもあるテロスということばが含意するギリシア哲学の影響も感じられる。私たちはイエス・キリストによって「すでに」救われているが「いまだ」キリストの再臨には接していない、中間時に生きる存在である(カール・バルト)、との理解との結びつきを感じた。
  担当個所については特に17節1「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(新共同訳)に着目。信仰は人間の側からの主体的な働きかけ(たとえば新告白、祈り、信仰に忠実であることを示すような行為)から始まるのではなく、神の側からの呼びかけ、人間の選びに始まり、それを私たちは受動的に受け容れることで信仰に入ることができる、というお話を。感話会では、その講義をもとに、非キリスト者への働きかけ、伝道などについて話し合いを。

 当日、伝道について私自身はさほど発言しませんでしたが 、政治学という学問にも携わる人間としては南原繁のあり方が理想かと。キリスト者であることを前面に出すわけではなく、自らの世俗の職務において「自然と」キリスト者としてのあり方が出てくる、そのようなあり方を目指したいものです。

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